1990年に初めてケニアを訪れ、以来、アフリカ通いを続けて走る関係者とのネットワークを築いてきました。20年ほど前には、アフリカの陸上事情についてのコラムを連載しました。

【series1】「エチオピア3000年の歴史は強さの源」

ベケレ選手

2005年4月13日「熱狂的なエチオピア人応援団」

今年3月にフランスで開催された世界クロカンではエチオピア旋風が吹き荒れた。なかでもケネニサ・ベケレの4大会連続2冠達成は印象深いものがあった。今夏、ヘルシンキで開催される世界陸上の長距離でもその勢いは止まりそうにない。エチオピアの強さの理由は何だろう。身体能力的には、もうひとつの長距離王国ケニアと大差はない。しかし決定的な違いは、“最後の踏ん張り”だと私は思っている。2年前の世界陸上パリ大会後に、とあるアフリカ専門誌に、『エチオピアランナーの活躍と民族意識の高揚』というタイトルで寄稿し、私なりにエチオピアの強さを分析してみたのだが、駐日エチオピア大使館から電話があり、全権大使閣下と面会することになった。「何か怒られることを書いてしまったかな!!」とどきどきしながら東京・白金台にある大使館を訪問したのだが、不安は杞憂に終った。ドゥング大使は、私が、エチオピア人の誇り高さを強さの理由に挙げたことを喜んでくれていたのだ。大使館でのスポーツ談議は盛り上がり後日、田園調布にある大使公邸でのディナーに招待され、エチオピア料理を堪能した。「長距離ランナーとしての潜在的な能力の高さを持つことは周知の事実だが、民族意識の高揚を背景に精神的な強さを兼ね備えたエチオピアの選手たちはアテネ五輪でもその実力を遺憾なく発揮することだろう」とそのとき原稿を締めくくったのだが、アテネ五輪では予想通り、金2個、メダル総数7個という大活躍をしたのだった。

熱狂的なエチオピア人応援団

 2年前の8月におこなわれた世界陸上パリ大会の男子10000m決勝では、エチオピアの3選手が金銀銅メダルを独占した。直後に場内の警備スタッフが、スタンドの一角に集結したことにはテレビ観戦の視聴者は気づかなかったかもしれない。スタンドにはヨーロッパ在住のエチオピア人が大勢、応援に駆けつけていたのだ。ヨーロッパでは、母国の代表が走る試合ともなると大勢のエチオピア人が応援に押し寄せる。そして優勝しようものなら、興奮した応援団の一部は国旗片手に、警備が手薄なフェンスを飛び越えて祖国の英雄に駆け寄るのが見慣れた光景となっている。サッカーのフーリガンなどとは違い、過激さはなく平和的におこなわれるので、見ている側は嫌な気はしないのだが、大会主催者にとっては面子にかかわる。そんな事態を未然に防ごうと大量に動員されたのがパリの警備スタッフだったのだが、アテネ五輪ではその辺の認識が甘かったのだろう、陸上競技の初日に男子10000mでケネニサ・ベケレが優勝するとエチオピア人応援団はグラウンドになだれこんだ。こうした光景はヨーロッパだけに限ったことではない。96年のアトランタ五輪女子マラソンで優勝したファツマ・ロバが独走態勢にはいったとき、沿道のエチオピア人青年2人が国旗を手にコースに飛びこみしばらく併走したシーンを記憶している陸上ファンも少なからずいるのではないだろうか。

 エチオピアの強さが関係者の間で再認識されはじめたのは90年代前半のこと。ちょうど前政権が倒れ政治体制が移行していた時期と一致する。92年バルセロナ五輪での金メダルは1個。続く96年アトランタは2個。2000年シドニーでは、32年ぶりの男子マラソン優勝を含む4個獲得の快挙、そして昨年のアテネでは2個。直近4大会で9回もエチオピア国旗がセンターポールに翻り、国歌が演奏されたのだ。シドニー五輪の際には、金メダル獲得のニュースが伝わるたびに街は大騒ぎになったという。この大活躍は、エチオピアの民族意識を高揚させた。選手団の帰国を市民50万人が出迎えたのだ。エチオピア国民が自発的にこれだけ集まったのは初めてのことだったという。この興奮は欧米在住のエチオピア人たちにも飛び火。海外で母国の選手が出場するレースでは熱狂的な応援が繰り返されるようになった。

明日は「長距離王国エチオピアの伝統」。お楽しみに!

2005年4月14日 「長距離王国エチオピアの伝統」

アベベ選手

 エチオピアの英雄は60年ローマと64年東京で連続して五輪金メダリストとなったアベベ・ビキラだ。スウェーデン人コーチの指導によって頭角を現したアベベは、ローマでは42.195kmのコースを裸足で走りぬき世界の注目を浴びた。この伝統がきっかけとなったのだろう、帝政時代、社会主義時代と体制は変わっても政府は陸上競技への援助を続けた。特に社会主義政権時代には、優秀な選手を首都に集めトレーニングさせるシステムが確立。東欧諸国に国費留学して最新の指導理論を学んだコーチ陣が指導にあたった。政治体制が大きく変わった現在もこのシステムが受け継がれていることは90年代以降の活躍を語る上で重要となる。エチオピアの強さを“高地民族”だからと解説されることが多いが、それだけではないのだ。とはいえ88年ソウルまでに6回参加した五輪で獲得した金メダル数はアベベなど帝政時代のものを含めても5個、メダル総数は10個。76年モントリオールと84年ロスはボイコットという不幸はあるものの、決して多いとはいえないメダル数だ。ところが91年、政治の体制が変わってから選手の意識は大きく変わった。これまでは走る目的は、皇帝のためであり、社会主義国家維持のため。市場経済が導入され自由に収入を得られるようなった選手の意欲は増した。新体制で初の五輪参加となったバルセロナ以降、年々活躍の度合いが増してきているのだ。

エチオピア人選手の民族意識

男子10000mエチオピア金銀銅独占(世界陸上パリ大会)

 エチオピア選手が他のアフリカ諸国と異なるのは、賞金レースにも積極的に出場しながらも、国代表としての五輪や世界陸上でも確実に結果を残していること。80もの民族が暮らす多民族国家でありながら、3000年とも言われる歴史が培った独自の文化と“エチオピア人意識”がそうさせるのだろうか国代表となることを名誉と感じる感性がエチオピア選手には根付いている。日本の選手にとって五輪や世界陸上で勝つことは特別な意味を持つが、エチオピア選手にも共通するものがあるらしい。その点、隣国ケニアでは、「国のため」といった意識はやや希薄かもしれない。男子マラソンを例に取ると世界の賞金レースでは7割に勝利し、世界ランキング100傑の8割を占めるにもかかわらず、五輪での優勝はない。多くの選手が賞金レース出場を選び、代表になりたがらないからだと噂される。エチオピア人選手が、ローマ、東京、メキシコそしてシドニーの4大会に優勝しているのとは実に対照的だ。ケニアもまた多民族国家だが、その民族数は40ほどで、数的にはエチオピアの半分ほどだ。しかし“ケニア”としての国の歴史が、イギリスから63年に独立後、わずか40年余りしかないことが意識の差に表れているようだ。

明日のテーマは「皇帝ハイレ・ゲブレセラシエ」。お楽しみに!

2005年4月15日 「皇帝ハイレ・ゲブレセラシエ」

ベケレ選手、ゲブレセラシエ選手

私が初めてエチオピアの首都アディスアベバを訪問した91年秋、路上には戦車がひっくり返り、政変直後のピリピリした空気が街中にただよっていた。スタジアムでは当時、マラソンの世界最高記録保持者だったデライン・デンシモが国代表チームで練習を続けていた。憧れの一流選手に混じって一緒にトレーニングに励んでいた若手選手何人かの名前が私の雑記帳に残されている。そのなかに“ハイレ・ゲブレセラシエ”の名前もあった。当時、18歳。私の記憶にはまったく残っていないのだが、その後、“皇帝”というニックネームが贈られるほどの選手に成長する。五輪2連覇と世界陸上4連覇、世界記録7回更新の偉業をなした20世紀最強の長距離ランナーは、21世紀になっても走ることへの意欲に衰えはない。優勝賞金や世界記録更新ボーナス、契約するスポーツメーカーからのスポンサー料を合わせると億単位の年収があり、賃貸用のビルをいくつも所有するビジネスマンでもある彼にとって、一生遊んで暮らすだけの蓄えは十分だ。金のためだけならもう走る必要などないのだろうが、走り続けることの目的を、「国民に夢を与えるためだ」と公言する。自分が走ることでエチオピアの国民の心がひとつになることが嬉しいのだ。経済的な理由から、なかなかケニアほどの練習環境が整わない国内に、ハイレ自身の私費を投じてトレーニングキャンプを設けたのも、自分に続く若者に少しでもチャンスを与えたいとの思いからだ。“新皇帝”と呼ばれるようになったベケレもこのキャンプの出身だ。ハイレがデンシモの後ろ姿を見ながら強くなったように、ベケレもまた憧れのハイレと一緒に練習するなかで世界への階段を上っていったのだ。

エチオピアを代表して世界で活躍できることを選手は誇りに思う。活躍が繰り返されることで国民はますます熱烈な声援を選手におくる。選手は「ますます頑張ろう」との思いを強くする。この好循環が今のエチオピアの強さの原動力なのだ。エチオピアの応援団はヘルシンキの世界陸上にも詰め掛けることだろう。できることなら、トラックを走るエチオピア選手の活躍だけでなく、緑黄赤3色の国旗を振りながら熱烈な応援を繰り広げるスタンドの様子も日本のお茶の間に届けてもらえるようTBSの中継ではお願いしたい。エチオピアの強さの原点を日本に居ながらに感じることができるはずだ。

第一回のシリーズテーマは「エチオピア3000年の歴史は強さの源」でした。エチオピアの強さの秘密を探っていくと、一般的に語られる“身体能力の高さ”だけでなく、“歴史に裏打ちされた民族意識の高さ”だとか、“スーパーヒーローの存在”、“トレーニングシステムの充実”など様々な背景が見えてきました。“民族食こそが強さの源だよ”と言うエチオピアの友人もいます。

こうした背景はエチオピアに限らず、どこの国にもあるのです。第二回以降も陸上競技の楽しみ方の幅が拡がるようなテーマを掲載していきます。どうぞお楽しみに!

【series2】「ケニア人選手マラソン圧勝の秘密」

2005年4月20日「ケニアでマラソンは不人気種目だった」

キプチョゲ・ケノイ
“ケニア陸上競技の父”として広く国民に慕われている

 春のマラソンシーズン到来。男子のレースに限ってみると、ロッテルダム、パリ、びわ湖、ロス、ロンドンなどを制し、今年もケニアの独壇場だ。昨年、優勝記録が2時間15分を上回った世界のマラソンレースは85もあったのだが、ケニア人選手は52レースに優勝し、その実数は46人にのぼる。これほどのトップクラスのマラソン選手がケニア一国にいることは正直驚きだ。勝負に強いだけでなく、記録的にもすごい!昨年2時間10分を切ったサブ10(テン)ランナーは世界に59人、うちケニア人選手は23名もいる。ちなみに日本は9人、エチオピアは4名、タンザニアは1人だけ。2時間08分を切ったサブ8(エイト)になると12人中8人とその割合は高くなる。日本は高岡寿成(カネボウ)ただ1人、エチオピアとタンザニアは0人だ。さらに、2時間06分台で走った7名(実数5名)は全員がケニア人選手だった。90年のランキングでは、50傑にはケニアもエチオピアもタンザニアも2?3人でその実力は拮抗していたのに今では、ケニアが質でも量でも世界を圧倒している。とにかく今のケニアからは次からつぎへと新しいヒーローが登場しているので名前を覚えている余裕もないほどだ。

 ところが、これほどの圧倒的強さを持ちながら、五輪でマラソンの優勝がないのは意外だ。世界陸上も87年のローマ大会でダグラス・ワキウリが優勝しただけ。特に五輪では、ここ10年ほど、ケニア勢は優勝候補に名を連ねながら、見事に期待を裏切り続け、唯一日本でマラソンを学んだエリック・ワイナイナが、踏ん張りをみせるのみ。選手層で劣るエチオピアが確実に結果を残しているのとは大違いだ。本気でマラソンを走るなら1年の出場可能回数は2~3回だと言われる。それ以上だと選手寿命が短くなってしまう。エチオピアや日本の選手は、その貴重な1回として母国代表のレースを重要視しているのだが、ケニアの場合はどうもそうではなさそうだ。ケニア人選手の多くは欧米での賞金レースに魅力を感じているようだ。ケニアでマラソンが何故強くなったのかを知ればその理由がみえてくる。

ケニアでマラソンは不人気種目だった

コロン・オコーネル氏(左)
アイルランド人教師。『イテンキャンプ』の生みの親

 意外かもしれないが、10年ほど前までケニアではマラソンは「トラック種目で活躍できない選手が挑戦する」不人気種目だった。80年代後半、エチオピアの複数のマラソン選手やタンザニアのジュマ・イカンガーが日本のマラソン大会で何度も優勝争いを演じる一方、ケニアの選手は前半飛ばすだけ飛ばして後半失速、姿が見えなくなるケースが少なからずあったが、このことはケニア国内でのマラソン不人気を象徴していた。

 世界中どこでも、英雄が活躍したスポーツ種目がその伝統的種目となる傾向がある。エチオピアでは60年ローマと64年東京五輪で2連覇したアベベ・ビキラのマラソンだし、ケニアでは68年メキシコと72年ミュンヘン五輪であわせて金メダル2個と銀メダル2個を獲得したキプチョゲ・ケイノの1500mや3000m障害などのトラック種目がそうだった。

 英国から独立して日の浅い『ケニア』の名を世界に知らしめた五輪でのケイノの活躍以来、その練習風景を間近にすることができる英雄の出身地リフトバレー州を中心に、ケニアでは走ることへの人気が高まっていた。76年に、同州イテンのキリスト教系高校に着任したアイルランド人地理教師コロン・オコーネルが、授業の合間に近隣の子どもたちを集めた陸上教室『イテンキャンプ』を定期的に開催、走ることの基本を教えた。基本に忠実な指導は実を結び、五輪や世界選手権ケニア代表の大部分がイテンキャンプ出身者ということもあった。また発展途上国ではスポーツが国威発揚の手段として重要な意味を持つから、優秀な長距離選手は陸軍の陸上チームに迎え入れられた。「頑張れば代表選手として海外に行けるだけでなく、陸軍に就職もできる」ことが分かって、この地域の陸上熱はさらに高まっていった。校長を最後に、退職した今でもイテンにとどまって指導を続けるオコーネルは「子どもたちに夢を与えたかった」と当時を振り返る。イテンの成功を目の当たりにして、近隣のケニア人教師も同様のキャンプを始めるに至り、リフトバレー州は長距離選手の宝庫とさえ呼ばれるようになった。

 80年代になって陸上競技の世界では賞金レースが増加。レース主催者との仲介を仕事とする欧米人のエージェントと契約したケニア人初のプロランナーが誕生したのは89年のことだった。これまで陸上を続けたければ、陸軍の陸上チームに加わるか留学するかしかなかった選手にプロという選択肢が増えたことでトラック種目の選手層は激増したのだった。

次回は「賞金レースの魅力が強さの源」です。お楽しみに!

2005年4月21日 「賞金レースの魅力が強さの源」

ガブリエル・ローザ氏(中央右)
イタリア人医師。ケニア人選手が国内でマラソン練習ができる合宿システムを確立した

 賞金レースはトラック種目だけでなく、シカゴ、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、ロッテルダム、ベルリンなど大規模市民マラソンでも主流となってきた。世界的なマラソン人気の追い風を受けて、欧米のマラソン大会では賞金額が高騰。優勝賞金に好記録のボーナスを加えると10万ドルを超えるケースも珍しくなくなった。イテンキャンプの出身でアメリカ留学中にマラソンを学んだイブラヒム・フセインは88年、91年、92年の3度ボストンに優勝して多額の賞金を手にした。日本円で1万円に満たないと言われるケニアの平均月収をはるかに上回る巨額の優勝賞金は、マラソンの魅力を増大させるには十分だった。しかし伝統的にマラソンに関心のなかったケニア国内には、専門性が求められるマラソン指導者が皆無に等しかったため、世界で戦うことができるのは、フセインや日本にマラソン留学したダグラス・ワキウリなど海外組に限られていた。当時、国内組は、後半失速して惨敗という展開が多かったが、これは42.195kmを走りぬくレース配分を教わることなく我流で練習を続けた結果だったのだ。

モーゼス・タヌイ(※)
ローザ氏の一番弟子。96年ボストンマラソン優勝から“ローザ軍団”の快進撃が始まった

 ケニアでマラソン選手が急増したのは、マラソンコーチとして有名だったイタリア人医師ガブリエル・ローザのケニア訪問がきっかけだった。「選手の身体能力の高さと、マラソン練習に最適な環境」に魅力を感じたという彼は、91年東京世界陸上で10000mに優勝したモーゼス・タヌイを90年から指導。イタリアのスポーツメーカーの支援を受けて、タヌイの故郷リフトバレー州にマラソン練習のための宿泊施設(キャンプ)を設けた。96年のボストン優勝は国内で練習を積んだマラソン選手初の栄光だった。

タヌイの豪邸
賞金を元手に会社経営にも進出し、地元では有数の大金持ちだ

 マラソンで獲得した賞金で豪邸を建て、ランドクルーザーを乗りまわすタヌイは、地元のヒーローだった。タヌイを慕う多くの同郷の若者が豊かな生活を夢見てキャンプに集った。現在ローザのマラソンキャンプはリフトバレー州を中心に10箇所、所属選手は200人近い。彼らがマラソンを走る目的は、国の名誉のためではなく、貧しい生活からの脱出のために高額の賞金を獲得することだ。

 ローザの成功に刺激されて欧米のエージェントやコーチがキャンプ運営に参入しているが、その実力の差は極めて大きい。世界記録保持者ポール・テルガトを始め、ローザの指導を受けた選手は年間世界のマラソン約20大会を制している。「ケニアのマラソンの歴史は自分が作った」と豪語するローザの言葉には自信があふれている。

次回は「ケニアが有利なこれだけの理由」です。お楽しみに!

2005年4月22日 「ケニアが有利なこれだけの理由」

ナイロビにある立派なスタジアム
施設の充実もケニアの強さを物語る上で重要だ

 ケニア国内でのマラソンキャンプの充実が選手の増加とレベルアップに大きく貢献していることは明らかだが、隣国エチオピアやタンザニアにこうしたキャンプがほとんど見当たらないことが、ケニアの優位を揺るぎないものとしている。その素質は歴史的に明らかなのだから、ライバルのエージェントは二番煎じのケニアより、タンザニアやエチオピアでマラソンキャンプを運営すれば良さそうなもの。なぜケニアにだけキャンプが増えるのか?その理由を探ると東アフリカの現実が見えてくるから面白い。

 最も重要なのは政治経済的側面。2002年に第3代大統領が選出されたケニアは独立以来一貫した自由主義体制を維持している。外資の援助を受けたキャンプ運営には、政権の安定は欠かせない。首都ナイロビが東アフリカの玄関に位置づけられ欧州からの国際便も多く就航していることは、欧米との交流を容易にした。加えてサファリツアーなど観光が重要な収入源なので道路網が国の隅々まで整備されており、乗り合いワゴンタクシー“マタトゥ”やバスなど公共交通機関も充実している。ナイロビからキャンプ地が集中するリフトバレー州への約400kmは舗装道路。ところどころ穴があって快適なドライブではないけれど、車で5時間もあれば到着できる。ちなみにバスの運賃は1000円ほどだ。もし1万円ほど払えるのなら今では国内線が毎日数便就航しており、わずか1時間の移動だ。国内移動が容易であることは欧米から選手発掘に訪れるには好都合だし、選手にとっても国内各地の大会に出場するのにも、ナイロビの国際空港へ移動するにも便利だ。

標高3000mのマラソン合宿所
カプサイトにあるこのキャンプには“ローザ軍団”の中でも最精鋭が集う

 エチオピアの首都アディス・アベバは標高2400m。これまでの歴史が証明するように、マラソンの練習には最適の場所だ。社会主義政権時代、国を挙げてのスポーツ振興によりソ連や東欧に複数のマラソンコーチを留学させたエチオピアでは、国の管理のもとで少数精鋭のマラソン指導が行われていた。アベベ以来のマラソン人気は今でも根強い。少数精鋭の指導システムは過去のものとなり、現在、首都にはヨーロッパのスポーツメーカーの援助を受けたオランダ人エージェントによるキャンプも誕生している。ケニアのように地方にもキャンプが増えれば、埋もれた才能の発掘が可能となり、より多くの選手が世界で活躍することができるのだろうが、悪路が多い上に公共交通網が不十分なため夢のまた夢。タンザニアではトップランナーの練習地はアフリカ最高峰キリマンジャロ山にほど近い標高1500mのアルーシャだ。タンザニアが誇るマラソン選手ジュマ・イカンガーが拠点としていた場所でもある。ケニアのナイロビまで車で3時間の距離は欧米人エージェントにも魅力だろうが、問題は都市基盤の充実度。水や電力の供給、通信網の整備に関して、どうしてもケニアからは見劣りがしてしまう。それでも現在2つの地元クラブがこの地で積極的に活動をしているのだが、他の地域に広まらないのは国内移動の不便さが影響している。

 教育システムも、世界での活躍に大きく影響している。小学校から英語で授業が行われているケニアの英語能力の高さは大きく評価される。エージェントが交渉するにも、コーチが指導するにも、言葉の理解が必要となる。海外の大会に出場の際にも英語が理解できれば記者会見でのやり取りもスムーズとなるから主催者は大助かり。同じ実力のケニア人選手と英語が理解できない他国の選手がいて、そのうち1人しか招待する予算しかなければ、まず間違いなくケニア人選手が招待されるだろう。英語が公用語であることがケニアの地位を決定的にしたと言えるかもしれない。イギリスの植民地だったものの国の政策で初等教育をスワヒリ語で行ったタンザニアや、アフリカの大部分が欧米に植民地化されていた時代も独立を守り通したアムハラ語を公用語とするエチオピアと、ケニアとの差は開く一方なのだ。好条件が揃ったケニアではマラソンキャンプがまだまだ増え続けている。

第二回のシリーズテーマは「ケニア人選手マラソン圧勝の秘密」でした。ケニアがマラソン王国になるに至った背景や理由を、歴史をたどりながら駆け足で解説したものです。歴史は様々なドラマやトピックスの積み重ねで成り立っています。ところが限られた字数の中での解説では、どうしても、簡単に通り過ぎるしかありません。実は様々な人間模様の中にこそ、歴史を理解するヒントが隠されているのにもったいないことです。第三回以降しばらくは、ケニアやエチオピアのドラマやトピックスに注目してみましょう。スポーツに欠かせない食にも触れてみましょう。“ケニアには走ることが苦手な民族もいること”や、長距離選手にとって理想的な栄養バランスの伝統料理がエチオピアにあること、などもお伝えします。それぞれの話題を通して、長距離マラソン王国誕生の背景がより詳しくご理解いただけると思いますし、より親しみも増すことでしょう。どうぞお楽しみに!

【series3】「多民族国家ケニアを理解してみよう」

2005年5月2日「走ることが得意な民族と苦手な民族」

グレート・リフトバレー
この地域には“長距離走が得意ではない”民族が暮らす。

 ケニアは、40以上、一説では52もの民族が暮らしているという多民族国家だが、長距離走を得意とするのが、カレンジン、キクユ、キシイの3民族であるということはケニア国民の間では周知の事実だし、世界の陸上競技界でも有名な話となっている。その中でもカレンジンの実力は圧倒的。昨年の男子マラソン世界10傑にランクインした7名のケニア人選手全員がカレンジンなのは驚きだ。キクユでは、女子マラソン元世界記録保持者キャサリン・ヌデレバ、キシイでは、箱根駅伝で大活躍したジョセフ・オツオリが有名だ。これら民族はいずれも標高2000m前後の高原地帯に暮らすが、カレンジンは西に広がるリフトバレー州、キクユは首都ナイロビに近い中央州、キシイは南西部のニャンザ州と、それぞれの故郷は分散しており、独自の文化や生活習慣を持っている。

 3民族は、2つの系統に分けられる。カレンジンは、“ナイロハミティック系”の牧畜民で、キクユとキシイは、“バンツー系”の農耕民だ。“ナイロハミティック系”は、エチオピア周辺をルーツとし、遠い昔にナイル川に沿って南下、現在では、ケニアの他、エチオピア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジにも同系統の民族が暮らしている。“バンツー系”はアフリカ大陸に最も多い系統で、西アフリカがルーツだ。

 ちなみにケニアで最も有名な民族マサイは“ナイロハミティック系”の牧畜民なので、そのルーツはカレンジンに近い。800mで世界陸上ローマ大会と東京大会で2連覇したビリー・コンチェラーや世界陸上ローマ大会6位のステファン・オレ・マライなどが活躍した時代もあったが、最近ではマサイの名前を耳にすることがほとんどなくなってしまった。人口32万人の少数民族であるうえに、定住を苦手とする独特の生活習慣が影響しているのかもしれない。

 ところでアフリカ大陸に散らばるバンツー系民族の体格について興味深い違いがある。西アフリカに残ったグループは、ナイジェリアやカメルーンのサッカー選手に象徴されるように瞬発系スポーツを得意とし、ケニアやタンザニアなど東の高地に移動したグループは、長距離など持久系を得意としていることだ。アフリカの人種を解説した本によると、人の体格は、標高や気候に適応して、変化していくのだという。熱帯降雨林が広がる高温多湿の低地に暮らす西アフリカの民族が筋肉質で体格が良く、湿度が低く気温の高低差が激しいサバンナに暮らす東アフリカの民族が細身で手足が長いのは、このためらしい。確かにアフリカを旅すると西と東では明らかに体格が違うし、得意なスポーツも、西はサッカーや100m、東は長距離と身体的特徴に見合ったものになっている。ちなみに、このことはバンツー系のみならず、世界中の民族に当てはまるらしい。

 エチオピアやケニアを含む東アフリカには、グレート・リフトバレー(大地溝帯)と呼ばれる太古の昔にできた巨大な大地の裂け目があり、その標高差は最大で1000mにもなる。ケニアには長距離が得意な3民族が暮らす標高2000m前後の高地地帯がある一方で、裂け目部分は、標高が1000mちょっとしかなく、くぼ地が多いから巨大な湖が点在し、気温も高めだし湿度も低くはない。こうした地域には、長距離マラソン王国ケニアのイメージからは程遠い“走ることが得意ではない”民族が暮らすことをご存知だろうか。その代表格は西部州のルヒヤとニャンザ州のルオーだ。この2民族はサッカー、短距離走、投てき種目など瞬発系スポーツが得意なことで有名だ。ルヒヤはキクユやキシイと同じ西アフリカがルーツの“バンツー系”、ルオーはナイル川沿いを下ってきた“ナイロティック系”とそのルーツは異なるが、その体格は両民族とも見るからに“太目の筋肉系”。長距離をさっそうと走る姿はとても想像できない。ケニアで最も人気のあるスポーツは他のアフリカ諸国同様、サッカーだが、代表チームメンバーの大半は、ルヒヤとルオーだ。ただしこれは、ケニア国内での比較の問題なので、FIFAランキング79位が示すように、そのレベルは決して高くはない。ちなみにナイジェリアは24位、カメルーンは26位だ!国内では、瞬発系スポーツ代表に名を連ねるルヒヤとルオーだが、西アフリカの選手に比べるとその体格差は明らかだ。

次回は「簡単!ケニア主要民族の見分け方」です。お楽しみに!

2005年5月3日「簡単!ケニア主要民族の見分け方」

モイ前大統領
長距離走実力No.1のカレンジン出身。

 同じケニア人とはいえ、顔つきや体格は民族ごとの特徴を持っている。ちょっと慣れるとどの民族グループに所属するかを見分けるのは難しくない。しかしテレビ観戦しながら、ケニア選手だけを眺めているわけにはいかないから、簡単な判別方法を紹介しよう。それは名前だ!名前は民族固有の歴史や文化を如実に表している。何より民族ごとに話す言葉が違うから、親の思いがこもった名前にはそれぞれの言語が使われることになる。

 走ることが得意な3民族の名前を比べてみよう。KIPCHで始まる名前はカレンジンだ。一般的に、KIPは男性、CHEPは女性を示す接頭語だ。さらに、どんな状況で生まれたのかが名前から分かるから興味深い。KIPROPとかCHEPROPという名前の選手は、恐らく、雨季に生まれたのだろう。ROP(ロップ)、には「激しい雨」という意味があるのだ。夜に生まれたらLAGAT(ラガト)またはKEMBOI(ケンボイ)。夕方だとROTICH(ロティッチ)。訪問者がいた日に生まれたならTOO(トー)など、生活に密着したネーミングは親しみやすい。牧畜民であるカレンジンにとって牛は生活の一部であり財産、つまり豊かさの象徴だ。ケニアの前大統領は、ポール・テルガトと同じカレンジングループのトゥゲンだったが、MOI(モイ)という名前は、牛という意味だ。

テグラ・ロルーペ(※)
カレンジンの中でも最も辺境に住む少数民族の出身。

 実はカレンジンという単独の民族は存在しない。ナンディ、トゥゲン、ポコトなど文化的に近似の小民族の連合体だ。女子マラソンのテグラ・ロルーペ(LORUPE)もカレンジンだが、最も辺境の地に住む少数民族ポコトだ。最近、マラソンのランキングにLOLIで始まる名前を見かけるようになったが、彼女の活躍がきっかけで増加したポコトの選手たちだ。

 このほかに、覚えておきたいカレンジンの名前にはつぎのようなものがある。タヌイコスゲイロノリモボイトビウォット。これらは、日本でいう「佐藤さん」、「鈴木さん」だ。初マラソンながら先週(4月24日)のハンブルグマラソンを2時間27分06秒で制した、エディス・マサイという選手がいるが、彼女もカレンジンだ。同じ牧畜民のカレンジンとマサイは、かつて牛の争奪をめぐり戦いを繰り返してきた宿敵だった。勇猛な戦士として名高い敵に敬意を表したのかもしれない。

 ちなみにマサイ民族の名前には、姓と名の間にOLE(オレ)と入ることが多い。マサイ語で「~の子ども」という意味なので、オレ・マライは「マライの子ども」ということになる。

キャサリン・ヌデレバ
『N』で始まる名前はキクユの特徴。

 キクユにはで始まる名前が多いが、その中でもN+子音(DとかJ)は、発音するには日本人泣かせだが、最も馴染み深いのではないだろうか。女子マラソンのキャサリン・ヌデレバ(DEREBA)や日本のチームに所属するダニエル・ジェンガ(JENGA)やジェームス・ドゥング(DUNGU)はキクユだ。彼らに関しては、カタカナ表記の方法が統一化されていないので紛らわしい。ヌデレバに表記を合わせるなら、ジェンガではなくヌジェンガ、ドゥングではなくヌドゥングが適当だ。英語表記なら、彼らがキクユであることは一目瞭然だ。

 日本でも馴染み深いマイナ(MAINA)、カリウキ(KARIUKI)はこの民族の中では「佐藤さん」、「鈴木さん」だから、キクユの町ではうかつに「マイナ!」と叫ばないほうがいいい。友人を呼んだつもりが、何人ものマイナさんが振り向くことになるから。

 このほかワキウリ(AKIHURI)、ギタヒ(ITAHI)、ワンジロ(ANJIRU)もキクユだ。

オンドロ・オソロ
キシイには『O』で始まる名前が非常に多い。

 キシイにはで始まる名前がとにかく多い。ヨベス・オンディエキ(NDIEKI)、オンドロ・オソロ(SORO)、ジョセフ・モガンビ・オツオリ(TUORI)、トーマス・オサノ(SANO)、マーガレット・オカヨ(KAYO)、イザベラ・オチチ(CHICHI)が有名だ。このほか、始まりではないが、日本にいたケネディー・イセナやステファン・マヤカもキシイである。

 この名前のパターンを参考に、マラソンの世界ランキングをチェックしてみよう。なるほどカレンジン名のオンパレードだ。私が数えたところでは、カレンジンの占める割合は7割以上に及び、キクユが2割、そしてキシイが1割弱といった割合になっている。ケニアの総人口3200万人(2004年)のうち各民族の割合は、キクユが最も多くて22%、カレンジンは12%、キシイは6%なので、カレンジンの人口は約360万人ということになる。横浜市の人口ほどしかいない民族が、世界のマラソン界を席巻しているのは驚きだ。

次回は「なぜカレンジンなのか」です。お楽しみに!

2005年5月4日「なぜカレンジンなのか」

 ケニア国内を移動しながら、各地で住民たちと話をすると、民族ごとに価値観が異なることが分かってくる。「ケニアで走ることは、ブラジルのサッカーと同じさ」とカレンジンの中心地エルドレットの住民は口をそろえるが、ケニアで一番人気のスポーツはサッカーだし、このコメントがすべての国民の意見を代表しているとは思えない。特に長距離を得意とする3民族のうち、カレンジンと、他の2民族との走ることに対する気持ちの温度差は印象的だった。

 「自分たちは、祭りと戦い、そして走ることが好きだ」とカレンジンを構成する小民族ナンディの若者は胸を張る。牧畜民として、牛争奪を巡る近隣民族との紛争が多かったカレンジンの社会では、勇ましさ、優れた運動能力は、伝統的に尊敬を集める。この意識は、スポーツとしての陸上競技でも存分に発揮されている。

 一方、農耕民のキクユとキシイは、歴史的に走ることへの理解があるとはいえない。キシイには、キプチョゲ・ケイノと同じ1968年のメキシコ五輪でケニア初の金メダル(1万m)を獲得したナフタリ・テムという英雄がいる。にもかかわらず特に年配層には「走るなんて無駄なこと」という意識が根強い。

 植民地時代、宗主国イギリスのシステムや文化を柔軟に吸収したキクユは、教育に熱心な民族として知られ、多くの知識人を輩出、ケニア独立運動の中心となり初代大統領を送り出し、官僚、ビジネスマン、医師、弁護士などの安定した職業に就く者が多い。そのため、「走ることは貧しい民族がすること」という声を少なからず耳にする。

 にもかかわらず、米国の複数の大学が優秀なケニアの長距離選手を競ってスカウトしていた80年代には、カレンジン、キクユ、キシイいずれの民族からも多くの若者が奨学金を得て渡米し世界で活躍した。当時の才能ある選手が競技を続ける理由は、就職のため。ジュニアとして活躍した選手は高校卒業後、陸軍の陸上競技チームに迎え入れられたし、もうひとつの選択肢は、海外留学により、資格を得て、将来の就職を有利にするというものだった。だからこの時代の活躍した選手には米国の大学卒業の肩書きを持っている者が極めて多い。イテンキャンプでオコーネルの指導を受けた、イブラヒム・フセイン(ボストンマラソン2度優勝)とピーター・ロノ(ソウル五輪1500m優勝)はともに経済学士だ。走ることを低くみていたキクユやキシイの若者にとっても留学はチャンスだった。91年世界陸上東京大会の金メダリスト(5000m)でキシイのヨベス・オンディエキは経営学を学んだし、88年のソウル五輪で金メダル(3000m障害)を獲得したジュリアス・カリウキは、米国留学中に取得した薬剤師の資格を生かして現在母国で薬局を開業している。

 90年代、賞金レースの増加により、プロランナーが稼げる時代がやってきて、状況は一変した。海外留学できる選手数は限られるからエージェントにとっても優秀な人材の取り合いになってしまう。だったら、見込みのあるジュニアの選手を囲い込んで、国内で育ててしまおう、という発想だ。すでにジュニアキャンプが充実していたリフトバレー州は、地域住民の走ることへの理解も高く、トップ選手対象のキャンプ開設場所としては最適地だった。足が速いことが、即、豊かな生活につながることがわかって、ジュニア時代に活躍した選手の大半は、高校卒業後、プロランナーの道を選択するようになった。身近に手っ取り早く力試しできるキャンプがいくらでもあるのだから、わざわざ海外に暮らす必要はない。カレンジンの若者にとって海外留学の魅力は色あせてしまった。

 キャンプでの練習は、日本のように監督がこと細かく指示を与える様子からは程遠い。エージェントが契約している欧米のプロコーチから定期的にファックスで送られてくる練習メニューにしたがって、ひたすら大人数で走るだけ。失業率60%のケニアでは走ることを職業としたい若者はいくらでもいるから、力のない選手や怪我をした選手は、遠慮なく切り捨てられ、人知れず去っていくのみ。少ない人材をじっくり育てる日本的システムは必要ないのだ。

 90年代を境としたケニアの変化は、オリンピックのメダリストの内訳に注目してみると理解しやすい。84年ロスではメダリスト2人中カレンジンは1人のみ(カレンジン50%)、2人とも米国留学生だった(海外100%)。88年ソウルは7人中、カレンジンは3人(カレンジン43%)、日本のワキウリ、ドイツ在住1人、米国留学生4人の計6人が海外組(海外86%)。92年バルセロナは8人のメダリスト全員がカレンジン(カレンジン100%)でうち1人だけが米国留学(海外12.5%)、残り7人は全員国内組。96年アトランタは、8人中6人がカレンジン(カレンジン75%)、日本にいたキクユのワイナイナ1人だけが海外組(海外12.5%)。00年シドニーは7人中6人がカレンジン(カレンジン86%)、ワイナイナと米国留学生のバーナード・ラガトの2人が海外組(海外29%)。04年アテネは、7人中5人がカレンジン(カレンジン72%)、1年の半分は米国滞在だが、残りは国内にいるヌデレバも国内組に含めるならラガトだけが海外組(海外15%)。80年代はカレンジンがそう多いわけでもなく、留学組が大半だったのに対し、90年代以降は、留学生が激減し、カレンジンが大部分を占めるようになる。リフトバレー州内でのキャンプ激増の動きと見事に連動しているのだ。

 ローザは、「キクユはよくしゃべるが、カレンジンは物静かだ」と評価する。カレンジンと他の2民族とで身体的な差異は感じないと言いながらも、メニューに従い黙々と練習に打ち込むカレンジンのほうが、指導がしやすいという。『英雄の存在』、『意識の高さ』、『充実した環境』、『優秀な指導者』、カレンジンには強くなるための多くの好条件が備わっている。「リフトバレー州は、マラソン指導に最適だ」というローザの言葉には重みがある。

次回は「キクユの才能と日本の指導力のコラボレーション」です。お楽しみに!

2005年5月5日「キクユの才能と日本の指導力のコラボレーション」

ニャフルルのキャンプ風景

 ケニアで最初に、トップ選手対象のキャンプが開設された場所は、中央州のニャフルル、キクユの土地だった。88年ソウル五輪優勝(5000m)のジョン・ヌグギらが所属し数ある陸軍陸上チームのなかでも最強と言われていた“カハワ(スワヒリ語でコーヒーの意味)軍団”が合宿地とするなど、ケニアでは古くから知られた高地トレーニングのメッカだった。89年、ケニア選手と最初にプロ契約を結んだイギリス人エージェント、キム・マクドナルドがスポーツメーカーから資金援助を得て95年に開設したものだが、選手はリフトバレー州出身のカレンジンだった。イテンのアイルランド人コーチ、オコーネルのキャンプにスポーツシューズやウェアーの援助をする見返りに有望な選手を紹介してもらっていたから、カレンジンの割合は増していった。「故郷の近くだと、誘惑が多くて練習に集中できない」というのがこの地に決めた理由だったという。2350mの標高があって、ナイロビまで200km、2時間ちょっとの距離は海外遠征にも便利で、合宿所としては最適だった。90年代には3000m障害のモーゼス・キプタヌイ(世界陸上3000m障害3連覇、元世界記録者)、ダニエル・コーメン(97年世界陸上5000m優勝、元世界記録保持者)、ノアー・ヌゲニ(シドニー五輪1500m優勝)らトラック種目の豪華メンバーが一緒に練習を続けていた。しかし2001年、カリスマ・エージェント、マクドナルドの急死によって求心力をうしなったキャンプは崩壊、選手たちはリフトバレー州に帰ってしまった。

 ニャフルルにキプタヌイがいた頃、世界記録を連発し多額の賞金を手にした彼が、高級車を乗り回す姿は、キクユの子どもたちの目にも留まった。地元紙に、「選手が獲得するマラソンの賞金が、政府の外貨獲得源の重要な位置を占めるようになった」と報じられるようになり、“走ること”が職業として国内で認知されてきている。「ダニエル・コーメンは次の選挙で国会議員になるだろう」と噂されているように、ランナーの地位は急上昇中だ。「カレンジンは、教育がなく走ることにしか才能がない」とキクユは口にするが、何となく大金持ちになった彼らへのやっかみに聞こえるのは私だけだろうか。就職難が深刻なケニアではキクユの子どもたちにとっても、ランナーは憧れの職業になりつつあるようだ。その証拠に、中央州内にはここ数年の間に、ジュニア選手を対象にしたキャンプが増加している。

 しかしながら、中央州に、トップ選手対象のキャンプは見当たらない。ジュニアキャンプが増えてきたとはいえ、キクユの選手層は、20年以上の実績があるカレンジン地域には遠く及ばない。確実に人材を確保したい有力エージェントは、リフトバレー州にしか興味を示さないのだ。

ダニエル・ジェンガ(※)
彼の活躍は日本の指導力とキクユの才能の相乗効果の賜物だ。

 過去の歴史が証明するように、キクユも決して才能的に劣るわけではないから、希望すれば、リフトバレー州にあるキャンプに所属することは可能だ。しかしキクユとカレンジンとでは、食事、生活様式、言葉どれをとっても大きく異なる。そんな中に、1人飛び込むのは居心地が良くない。そこでキクユの選手は海外に活躍の場を求めた。また国内にキャンプを開設するだけの財力とコネクションがない弱小エージェントは、有力エージェントが興味を示さない中央州を目指した。ジュニアキャンプを訪問し、有望な選手に出会うと、自宅に住まわせるなどしてより良い練習環境を提供した。現在、米国国内には複数のエージェントによるキクユのミニキャンプがある。最も成功した例は、キャサリン・ヌデレバと米国人女性エージェント、リサ・バスターの関係だろう。英国の植民統治時代も、英国人とうまく付き合い、新しい環境に容易に適応したキクユは、海外生活にも抵抗がないようで、米国の生活に溶け込んでいる。フィラデルフィア近郊にあるヌデレバ所属のキャンプやシカゴにある別のキャンプを訪問したが、キクユの選手たちは異国での生活を満喫していた。一方、カレンジンは、牧畜民だからだろうか、故郷を離れた土地に長期暮らすことが苦手らしく、稀に米国や日本に渡るケースがあっても、すぐに帰国してしまう傾向が強いようだ。

 日本の企業、大学、高校には現在30人以上のケニア選手が所属しているが、そのほとんどがキクユだ。それぞれのチームごとにカタカナ表記をつけているので紛らわしいが、ダニエル・ジェンガ(NJENGA)やステファン・ドゥング(NDUNGU)らは英語表記にすれば、キクユであることが一目瞭然だし、マイナやカリウキは典型的なキクユ名だ。

 歴史を作ったのはダグラス・ワキウリだった。83年、日本に陸上競技留学し、ヱスビー食品に所属。故中村清監督の指導で才能を伸ばした。中央州出身の彼にとって当時、故郷近隣で指導者を見つけるのは困難だったのだ。中村監督の急逝後、村尾マネージャーのアドバイスでマラソンを始めたワキウリは、87年世界陸上ローマ大会で、ケニア人として初めてマラソンの世界タイトルを獲得することとなった。その後も、エリック・ワイナイナやダニエル・ジェンガがマラソンで素晴らしい実績を残していることは周知の事実だが、日本の指導力とキクユの才能のコラボレーションの賜物といえるだろう。

 日本のマラソン指導理論と実績は間違いなくトップクラスだ。身体能力的に有利とはいえない日本人選手が世界に伍して戦えるのは、優秀な指導者に負うところが大きい。しかし言葉の壁があって、なかなか世界に広まらない。その点、キクユの選手は日本向きだったのかもしれない。適応能力が高く、教育熱心なキクユだったからこそ、日本語をすぐに覚え、異国の生活スタイルに溶け込むことができたのだろう。

 国として40年の歴史しかない多民族国家ケニアでは、いまだに国よりも、出身地域や出身民族を優先する考え方が根強い。そのことが、ケニア“代表”選手がここ一番であっさりと競り負けてしまう理由だとも言われる。特に身体へのダメージが大きいマラソンでは、最後まで頑張ってしまうと、つぎの賞金レースに響くから「無駄な努力はせずに、早めに棄権」という思いもなくはなさそうだ。しかし古くはワキウリ、近年ではヌデレバ、ワイナイナが五輪や世界陸上でメダルを目指して力走する姿を目にすると、異国の地に暮らす彼らだからこそ、自分のよりどころとなる母国を強く意識し、ケニアのために頑張ろうという気持ちが高まるのかなと感じるのだ。

【series4】「長距離選手にぴったりな!?郷土料理」

2005年5月18日「民族食インジェラがエチオピア強さの秘密!?」

「インジェラ」
(皿の上のクレープのようなもの)エチオピア選手に鉄分不足の心配はない?

 「インジェラが強さの秘密だよ!」東京・中目黒にあるエチオピア料理専門のレストラン『クイーン・シーバ』のオーナー、ソロモンさんは言う。アベベ・ビキラが五輪で優勝したとき、「“インジェラ”を食べてスタミナを養った」と語ったことで知られるエチオピアの主食だ。“テフ”というイネ科の穀物を細かく挽いた粉に水を加えて数日寝かせ、発酵させてからクレープ状に焼き上げる。これだけでも酸味があってなかなかの味だが、タマネギをたくさんのスパイスで煮込んだ“ワット”というシチューと一緒に食べるのが一般的。

 実はこのインジェラ、エチオピアだけのオリジナルフードだ。というのは原料のテフが、エチオピア高原にのみ自生する穀物なのだ。テフはとても小さくて軽い穀物なのだが、小麦や大麦に比べて2倍から3倍もの鉄分を含んでいる。酸素を体内に運ぶ役目をになう血液ヘモグロビンの重要な成分は鉄分だが、激しい練習をする選手は汗とともに大量に失われてしまうために普通の食事では補給が追いつかず、サプリメント(栄養補助食品)のお世話になっているケースも少なくない。しかしインジェラを毎日食べることができるエチオピア選手に、鉄分不足の心配は少なさそうだ。

 テフには、鉄分に加えて、カルシウム、カリウム、たんぱく質も他の穀物より数倍多く含まれていることから、“小さな巨人”と称されることもある。エチオピアの強さは栄養豊富な“民族食”抜きには語れない。

 私のインジェラとの出会いは90年のこと、開店した直後の『クイーン・シーバ』だった。翌年には、初訪問したエチオピアで本場の味を経験。インジェラとワットの絶妙な味のハーモニーに、はまった。日本にいても、その味が恋しくて、頻繁にお店に足を運んでいるが、エチオピアの人々にとっては、もっと思い入れのある料理であることは間違いない。

 エチオピア滞在中、インジェラを食べ比べたら、食堂によって酸味が違うことに気づいた。焼き始めるまでの発酵時間の差によるものだが、この酸味に慣れると病みつきになる。中目黒のインジェラは酸味が弱いので私は不満なのだが、日本人の嗜好にあわせて発酵時間を短くしてあるのだという。エチオピア代表選手が練習をおこなう国立競技場近くの食堂で食べたインジェラはひときわ酸っぱくて美味しかったけれど、直後にお腹をこわした。さすが発酵食品、腐敗と紙一重の現象だけのことはある。料理の発展の歴史のなかで、発酵とは、より良い味を引き出すための味の進化なのだという。世界中で民族の歴史が、ワイン、ヨーグルト、パン、味噌、醤油に代表される発酵食品を生み出し、料理の厚みを増していった。酸っぱいインジェラを食べながら、エチオピアの歴史の長さを実感した。

 サハラ砂漠以南の地域は“ブラックアフリカ”と呼ばれ、モロッコなど北部のアラブ人地域と区別されることが多いが、エチオピア以外では、主食はイモやモロコシの粉を熱湯で溶いて練り上げた餅や団子だから、味は実にシンプル。その味覚の差は、同じブラックアフリカでもエチオピアと他の地域がたどった歴史が大きく異なることを示している。エチオピアは大陸内にありながら、周囲との標高差が大きい高地に位置するため、欧州各国による植民地化を免れることができた一方で、陸続きの周辺地域との交流が進まず、独自の文化を培っていったのだ。

 インジェラは紅海をはさんで対岸のアラブ地域に古くからある小麦を原料とした主食と共通点があるという。エチオピアが作り方を学び、自生するテフに応用したのだという。栄養の知識などなかった遠い昔に、たまたま小麦の代わりとして流用されたテフが、長距離選手に最適な食品だったことは歴史の偶然といえよう。

次回は『エチオピア選手がここ一番に強い理由』です。お楽しみに!

2005年5月19日「エチオピア選手がここ一番に強い理由」

「ウガリ」
(手前の白い餅状のもの)エチオピアの主食インジェラと違い、極めて簡単に作れる。

 昨年、西部アフリカからの帰路、飛行機の乗り継ぎに利用したエチオピアの空港内レストランで、インジェラとワットをオーダーした。インジェラは好きなだけお替りできて、日本円で200円!安い。しかし日本でお腹いっぱい食べると2000円以上の金額になってしまう。地元では気軽に食べることができる主食なのに、日本ではちょっとおしゃれな高級エスニック料理といった感じで、単純に比較すると、かなり高い!けれど、日本でインジェラを作るためには、エチオピアから原料のテフを輸入しなくてはならないし、発酵させて上手に焼き上げるには相当な手間と時間がかかることを思えば、仕方ないのかもしれない。さらに日本の冬は、気温が低いためにテフがなかなか発酵せず、満足いく味に仕上げるために、かなりの苦労があるのだという。

 エチオピア料理のレストランは、日本では、東京に中目黒と渋谷、このほか大阪と秋田にもあるが、北米や欧州にはかなりの数がある。ワシントン20軒、ニューヨーク14軒、ロンドンでも14軒が営業中だ。80年代の内戦中に国外に逃れた多くのエチオピア人が、北米や欧州に大勢暮らしていることが理由のひとつだが、レシピ本が出版されていることからもわかるように、“エチオピア料理”がひとつのジャンルとして世界で認知され、欧米人にも人気があることも店舗数増加の理由となっている。

▲ウガリを食べるケニア選手。家では手を使って食べるのが一般的。

 来日したデラルツ・ツル(バルセロナ、シドニー五輪女子1万m金メダル)や故アベベ・ビキラの奥さんと娘さんを中目黒に案内したとき、美味しそうにインジェラとワットを食べていた。短期滞在であっても、郷土料理が恋しくなるのだから、長期に渡って海外に暮らすエチオピア人にとっては、なおさらのはず。海外在住のエチオピア人が個人で、インジェラやワットを作ろうと思っても、食材探しから始まってかなりの手間がかかることは容易に想像がつく。だから郷土料理を扱うレストランの存在は海外在住エチオピア人にとっては心強い。

 米国に暮らすケニア人選手たちの宿舎を訪問したとき、気軽に主食ウガリをご馳走してくれた。モロコシの粉を熱湯で練り上げるとあっという間に出来上がる。「ご飯を炊くよりも簡単だよ」と選手たちは笑う。エチオピアの主食インジェラは出来上がるまでに3日は必要だが、ケニアのウガリはわずか15分。この差は大きい。

 欧米に1ヶ月以上滞在し、賞金レース転戦を続けるケニア人選手は多いが、エチオピア人選手には少ない。英語のコミュニケーション能力の問題もあるから、積極的に海外遠征しようとは思わないのかもしれないが、食事の問題も重要だろう。民族食を作ることも食べることもできない海外には、できるだけ長期滞在したくないから、出場するレースは本当に大事なものだけに絞ろうと考える選手の数は少なくなさそうだ。栄養満点の国民食、インジェラとワットをお腹一杯食べながら国内で練習を続け、これと決めたレースで結果を出す!これがエチオピアの強さの原点なのかもしれない。

次回は『ケニア選手活躍の陰に“青汁”の原料あり』です。お楽しみに!

2005年5月20日「ケニア選手活躍の陰に“青汁”の原料あり!?」

▲見えにくいが、背後のキャベツのような野菜が「スクマウィキ」。

 ケニアだけでなく東アフリカで最も一般的な主食は、モロコシ(メイズ)の粉を熱湯で練り上げた団子状の“ウガリ”。南部のザンビアやマラウイでは“ヌシマ”と呼ばれるが同じものだ。チキンフライや牛肉のスープと一緒に食べることが多い。このほか、ライス、ジャガイモ、豆も、地域差はあるものの好まれている。いずれの食品も炭水化物は多いが、栄養的には、目だった特長はない。運動をしないケニア人は、カレンジンやキクユであっても、かなり恰幅が良いのだが、これはこれら高炭水化物食が原因のようだ。

 ケニアには長距離選手向けの秘密の食事があるのだろうか?注目したいのは“スクマウィキ”。ケニアの家庭では都会でも田舎でも、ウガリの付け合せとして、この野菜の煮込みを常用食としている。農村地帯などでは、お肉を口にするのは祝い事のある日のみで、スクマウィキが唯一のおかずという家庭も少なくない。「1週間これだけ食べても暮らし通せる」から、スワヒリ語でスクマ(Push=押し通せる)、ウィキ(Week=1週間)と名づけられるほど、重要な食材だった。

 ケニアではちょっと郊外に出れば、至る所でスクマウィキ畑を見ることができる。別名は“アフリカキャベツ”、キャベツの原種だそうだ。成長しきって葉が開いてしまった“普通のキャベツ”を想像して欲しい。キャベツに比べると、苦味が強いものの、炒めたり煮込んだ後、塩を少々かければ、ウガリとの相性はばっちり!私は、いつも小さく丸めたウガリにスクマウィキをたくさんからめて山盛り食べている。

 実はこのスクマウィキが“青汁”の原料として日本に輸入されていることをご存知だろうか。このことからも分かるように、栄養価が極めて高い!特にミネラルとビタミンの豊富さは、野菜の王様と称される“モロヘイヤ”を凌ぐほど。モロヘイヤと比べ、鉄分は2.5倍、カルシウムは1.5倍、亜鉛は3倍、ビタミンKは2.5倍も含まれている。

 「ケニアが優秀な長距離選手を生み出せるのはスクマウィキのお陰」という宣伝文句を青汁販売業者が繰り返すのは、その通りだと私も思うが、面白いのは選手の反応。選手たちが、スクマウィキを食べているのは、日常の風景だが、彼らの口から、その効用を耳にすることがないのだ。

 好成績を出すためには栄養の知識が欠かせないことは、今やスポーツ界の常識だが、ケニア選手はかなり無頓着にみえる。ローザ傘下の選手の場合、練習メニューは、イタリアにいるローザ父子から定期的に送られてくるが、その他の指示は、「練習と食事の後には、十分な休憩をとること!」。食事の内容より、食後の休憩の重要性を厳しく指導されているから、みんな部屋でごろごろしている。食事内容は実にシンプルで、選手向け特別食は見あたらない。ある日の献立は、朝は、チャパティ(インドの薄皮パン)とチャイ(ミルクティー)、昼は、ウガリと豆料理、夜は、ウガリと肉料理。作りおきが可能なスクマウィキは、大きな鍋にどっさり入っていて、毎食時に好きなだけ皿に盛ることができる。

 このようにスクマウィキは、ケニアの食卓では、あまりに当たり前すぎて、その秘めたるパワーに気づいてもらえないらしい。ケニア選手活躍の陰にはスクマウィキあり!

次回は『ナイジェリアパワーの源は食にあり』です。お楽しみに!

2005年5月21日「ナイジェリアのパワーの源は食にあり」

「フフ」芋の粉末を熱湯で溶いて固めた餅状の主食だ。

ナイジェリアは短距離に優秀な選手が多いことで知られている。男子100mで過去7名のナイジェリア人選手が10秒の壁を突破したが、その数は米国に次ぐ多さだ。彼らの体格は、筋肉質でいかにも瞬発系スポーツが得意そうにみえる。筋肉質体型が多い西アフリカの民族の中でも、ナイジェリアが活躍する社会的背景は、後日、解説するとして、私が印象深かった食にまつわるエピソードをひとつお伝えしよう。

今から10年ほど前にナイジェリアを訪ねたとき、陸連関係者に「なぜ短距離が強いのか」と聞いたところ、迷うこともなく「フフを食べているからさ」との答えが返ってきた。フフとは、ヤムやキャッサバという芋の粉末を、熱湯で溶き、練って固めた餅状の主食だ。ケニアのウガリ同様、スープなどと一緒に食べる。当時、これらイモ類の栄養素について調べたわけではないが、「なるほど!」と妙に納得したのは、自分が実際にそのボリューム満点の郷土料理を食べていたから、「これほど胃が膨れる食事を毎日食べ続ければ早く走れそうだ!」と思ったからだ。

 東アフリカの主食ウガリはモロコシ(メイズ)、西のフフはイモ類が原料だから、この違いが、長距離体格と短距離体格を作るのではと長い間、思い続けていたのだが、どうやらそうではなさそうだ。栄養的には、どちらも炭水化物が大半だから、エネルギーにはなっても、たんぱく質を補給しなくては、筋肉は太く強くならないのだ。

メアリー・オンヤリ選手(アトランタ五輪女子200m銅メダル)

米国・ヒューストンに暮らすナイジェリア人選手メアリー・オンヤリ(アトランタ五輪女子200m銅メダル)の自宅を訪問したとき、フフをご馳走になりながら、聞かされたのは、美味しいフフを作るには、かなりの腕力を必要とするということ。餅つきを思い浮かべて欲しい、餅状のフフを作るには、素手であっても、道具を使っても、かなりの力を加えなくてはならないのだ。

「ナイジェリアの人々は、毎日フフを作っているから、筋肉質なのだ!」と言うつもりはない。フフが、エネルギー効率の良い主食だから、激しい運動にも耐えられるのではないかと思うのだ。フフをいっぱい食べて、練習をし、フフと一緒に肉料理などたんぱく質豊富なおかずを食べるから、強靭な筋肉が作られるのだろう。

ナイジェリアでは、古くから「足が速いことは良いことだ」という伝統があり、村内の祭りなどでおこなわれる“駆けっこ”に勝った子供には、村の長(チーフ)から褒美が贈られていたという。子供たちは、足が速くなりたいから、遊びながら繰り返し走る。そのエネルギーの源は郷土食フフだったといえそうだ。

次回は『お肉への憧れは走ることへの意欲につながる』です。お楽しみに!

2005年5月22日「お肉への憧れは走ることへの意欲につながる」

▲メイズ(モロコシ)を収穫するテグラ・ロルーペ(女子マラソン)

長距離選手は遅筋(ちきん)、短距離選手は速筋(そっきん)の割合が多いという。速筋は瞬発力を引き出す筋肉、遅筋は持久力を引き出すときに使われる筋肉として知られているからアフリカの東と西とでは、筋肉の性質も異なると言われる。しかし、それぞれタイプは違う筋肉ではあるけれども、筋繊維を太くするためには、たんぱく質の補給はすべての選手に不可欠となる。

アフリカでは、長距離選手も短距離選手も肉が大好き。大陸にはナイルなど大河や広大なビクトリア湖があるからその周辺では魚も食べるけれど、やはりお肉だ!シチューとして肉を煮込むエチオピア以外では、焼いたり煮込んだりといった調理法が一般的。ケニアでは、ニョマチョマという炭火焼肉が大人気だが、食堂で食べると、ひとり1000円ほどの出費を覚悟しなくてはならないので、特別なときだけの楽しみだ。以前、バーナード・ラガト(アテネ五輪1500m銀メダル)が大阪グランプリに来日した際に、焼肉屋に連れて行ったら、大喜びしていた。焼肉好きは、日本もケニアも一緒のようだ。

お肉の人気ランキングは、私の経験からいうと、ケニアでも、ナイジェリアでも一番は、鶏肉、つぎはヤギ肉、そして牛肉となるだろう。豚肉は、イスラム教徒でなくても、あまり口にすることはない。

鶏肉は、少々高めだが、味に臭みもなく、美味しいのに対し、ヤギ肉と牛肉は、比較的安いけれど、餌が野草だからなのか少々臭みがある。ケニアの若い選手たちは、お金がないから、牛肉とジャガイモがわずかに浮かんだスープ(ケニアではこのメニューをシチューと称する)にウガリを浸して食べている。しめて200円!若い選手に、「好きなものを頼んでいいよ」というと、迷わず「クク!(スワヒリ語で鶏)」の声。一羽丸ごとだと500円ほどと高いから、二分の一とか四分の一という注文の方法もある。

カール・ルイスが現役時代、鶏のささみ肉しか食べなかったというが、そういう意味では、鶏肉好きのアフリカ人選手は、良質のたんぱく質を食べていることになるのだろうか。ただし調理には、大量の油が使われるので、選手ではない運動不足の一般人には要注意だ。

▲走る選手の横に牛。ケニア選手にとって家畜は富の象徴だ。

鶏肉が人気の秘密は、味覚だけではなさそうだ。アフリカ諸国では、一般家庭用もさることながら業務用冷蔵庫の普及率がまだまだ低い。田舎町を移動していると、至る所にお肉屋さんを見かける。店の前壁には大きく、牛などのイラストが描かれているから、そのお店が何肉を扱っているかは一目両全なのだが、牛肉屋をのぞくと、頭をおとされ、皮を剥がれた一頭そのままの姿で、ぶら下げられている。売切れるまでそのままの状態なのだが、大部分の村では、これが常温にさらされているから、時間が経つにしたがい傷みはじめる。

大型の牛は、中型のヤギに比べ、完売までに時間がかかることは容易に想像がつくが、ケニアの人々もそのへんは十分承知している。ビーフステーキを注目するとき必ず「ウエルダン!」と強調している。レアやミディアムレアはありえないのは、もっともだ。

日本ではレア好きの私もケニアではいつもは「良く焼くように!」と注文するが、一度だけ大失敗をしたことがある。カレンジンの中心地エルドレットで一番の高級ホテルに宿泊したとき、食堂に大型冷蔵庫があることを知っていた私は、迷わず「レア」のステーキを頼んでしまった。ところが、翌日、激しい下痢の洗礼をうけることになった。そういえば、ホテルの部屋には大きなロウソクが常備されていた。一日に数回の停電は、その町では日常茶飯事だったのだ。

これはその町に限ったことではない。インフラが他のアフリカ諸国に比べ整っているケニアですら、電力供給がこのように安定していないから、仮に冷蔵庫があったとしても、食品を新鮮なまま保存することは困難なのだ。大型の家畜からは多くの肉が取れるから1人分は安いけれど、鮮度が落ちるだけ味も落ちるから、人気は低くなる。肉の人気ランキングは、家畜の大きさに反比例していることに気づいていただけただろうか。

今の日本では鶏肉は、肉屋やスーパーで買うわけだが、アフリカでは、生きたままの鶏が売買される。乗り合いバスの車内では、足とクチバシを縛られた鶏をしょっちゅう見かける。実は私、鶏肉が苦手だ。アフリカの食堂の裏手から何度となく鶏の断末魔の声を耳にしたことがその理由なのだが、直前まで、元気に駆け回っていた鶏のお肉は、新鮮で美味しいことは確かだ。過去、ケニア国内で、トップ選手たちの自宅を何度もなく訪問したが、必ず裏庭では鶏が駆け回っていた。ペットとしてではなく、卵と鶏肉という貴重なたんぱく源として飼われていたのだ。

▲精肉店の看板は「芸術的(?)」。この店では牛とヤギを扱っていることが分かる。(ケニアで)

ケニアでは、牛は財産の象徴だ。特に牧畜民カレンジンにとってその思いは強い。地域の子供たちの夢は、「土地と牛を買うこと」。その夢を実現した1人テグラ・ロルーペは、東京ドーム7倍もの広さのメイズ(モロコシ)畑と数十頭の牛を所有している。乳牛は1頭約4万円、オスでもその半額はするから平均月収が1万円にも満たない地域でどれほどの資産家なのかがわかるだろう。ロルーペと同じポコトで、ペースメーカーでしかマラソンを走ることができなかったある男性選手は、乳牛10頭とヒツジ5頭を買ったことが自慢だ。ちなみにヒツジは1頭1万円。ペースメーカーの収入は、トップ選手の高額賞金から比べると、微々たるものだが、それでもこれだけの財産を得ることができるのだから、ランナーに憧れる子供たちが激増するのは当然の流れといえるだろう。

これら家畜は、財産の象徴だから、よほどのことがない限りは、食用にはせず、搾乳だけ。牛乳やヒツジの乳も選手たちには貴重なたんぱく源となる。肉が食べたいときは、裏庭で放し飼いになっている鶏か、肉屋で買った牛肉が食卓に上ることになる。賞金という現金収入を得られるマラソン選手だからこその豊かな生活ともいえるが、「大好きなお肉をお腹いっぱいに食べたい!」こんな思いも、若い選手たちの走ることへの意欲につながっているのかもしれない。

次回はシリーズ第五回となります。テーマは『走り続ける女性選手たち』。このところアフリカの女性選手が活躍するシーンを目にすることが多くなってきました。ヘルシンキでは、中長距離だけでなく、短距離や跳躍でも、メダルに手が届きそうです。ちょっと前までは、伝統の壁が女性の社会進出を阻み、活躍の芽を摘んでしまっていました。ここ数年で大きく変化したアフリカ女性の意識に注目してみましょう。お楽しみに!

【series5】「走り続けるアフリカ女性たち」

2005年6月2日「少数民族ロルーペの挑戦」

▲“平和マラソン”を主催するロルーペ

99年、ベルリンで、女子マラソンの世界記録を樹立したときテグラ・ロルーペは、1年の大半をドイツ西部のデトモルトで過ごしていた。理由は「ケニアにはコーチがいないから」だった。コーチでもあるドイツ人エージェント、フォルカー・ワグナーの自宅別棟で、ジョイス・チェプチュンバ(シドニー五輪女子マラソン銅メダル、99年ロンドンマラソン優勝)らケニア選手10人と共同生活をしていた。

ロルーペは、ケニアの首都ナイロビから北西に500km、リフトバレー州カペングリアで生まれた。車で南に1時間行けばケニアの陸上競技の中心地といわれるエルドレットがある。この地域を故郷とする民族カレンジンからは、伝統的に多くの名ランナーが誕生している。そのためこの地域に育った子どもたちは、身近でトップ選手の走りを見ることができたし、州内各地で頻繁にクロスカントリーや陸上競技の大会が開催されるので、気軽に出場して競技に親しむことができた。

ロルーペもそんな走ることに興味があったひとりだった。足が速く、世界クロスカントリー選手権ジュニアの部にケニア代表で出場したこともある。しかし女性は20歳までには結婚することが当たり前の伝統社会の中で、いつまでも走り続けるには勇気が必要だった。女性の仕事は子守、水汲み、畑仕事という伝統的価値観がケニアには残っている。特にロルーペはカレンジングループの中でも、最も北に住む少数民族ポコト出身。他のカレンジン系民族が近代化に適応したのに比べ、牧畜民としての伝統を頑なに守ってきたために、近隣民族との牛をめぐる紛争が今でも頻繁に報じられるなど、他の民族からは色眼鏡で見られることがある。

「選考会で2位や3位になってもケニア代表になれなかったのは政治的な理由からだ」とロルーペは言う。ジュニアのケニア代表になった実績のおかげで、郵政公社の陸上チームに職を得ることができたので、環境的には他の女性より恵まれていたはずだが、“女性であること”、“少数民族であること”の不利を克服して走り続けるためには、ケニアを離れるしか方法はないと感じていた。

1990年に横浜国際女子駅伝を一緒に走ったデリラ・アシアゴが日本の沖電気宮崎に就職し、ケニアの平均収入の何倍も得ていることを聞き知ったロルーペは、世界中のつてを頼って手紙を送り続けた。横浜で面識のあった私宛にもロルーペから「スポンサーになって」という“売り込み”の手紙が届いたほどだ。そんなロルーペがマラソンを始めたのはまったくの偶然からだ。タンザニアのマラソン選手を育てた経験を持つワグナーと92年に欧州の大会で出会い、ドイツに生活の拠点を移したことがきっかけとなった。

メキシコ五輪以来、3000m障害などトラック種目には伝統があったケニアだが、マラソンの人気は低かった。だから、専門知識を持ったコーチがいるわけもなくマラソン選手が育つ土壌もまったくなかった。ケニア国内でマラソン選手を養成する“キャンプ”システムを確立したローザの指導対象は、当時はほとんどが男子だったから、ロルーペら世界に挑んだ女性選手は、海外に新天地を見出すしか方法はなかったのだ。

ロルーペの生涯獲得賞金額は1億円を軽く超える。牧畜だけが主産業で、就職の機会にも恵まれないポコトの里では、今やプロランナーは男女を問わず若者憧れの職業だ。ロルーペが、地元の後輩たちにエージェントを紹介するなどきっかけ作りを続けたことにより、スーザン・チェプケメイ(02年ロッテルダム女子の部優勝)やジョセフ・ヌゴレプス(03年ロンドン男子の部3位)などポコトのマラソン選手が後に続いた。ロルーペの挑戦が、世界を認めさせ、伝統の壁に穴を開けたのだ。もう国内では「ポコトだから」と差別されることはないし、かえって世界では、エージェントから「ポコトだから」と期待される。15年以上も世界の第一線で走り続け、内外に強烈な印象を植え付けたロルーペの功績は計り知れないものがある。

ただ有名人になったロルーペには悩みもある。世間の嫉妬の対象となってしまったのだ。所有している農場が襲われ、牛を奪われたこともある。自宅所在地を、他人に知られることを極度に恐れているロルーペの姿は気の毒だった。 03年、ロルーペのもうひとつの挑戦が始まった。国際陸連やケニア五輪委など国内外のスポーツ関係者の支援を受けて、出身地カペングリアで“平和マラソン”を主催したのだ。

地域の若者に走るチャンスを与えるための一般レースだけでなく、“戦士の部10kmレース”が実施されたことで大きな注目を集めた。ポコトと近隣民族との牛争奪をめぐる紛争は、ケニアと隣国ウガンダでは積年の問題だった。それぞれの民族内に組織される“戦士”同士の衝突がひとたび起これば、多くの命が奪われる。こうした状況に、心を痛めていたロルーペは、地元での抜群の知名度を生かして反目してきた周辺民族の“戦士”にレースへの出場を呼びかけたのだ。武器を持つことなく共通のゴール目指して一緒に走ることで、敵対ではなく、理解を深めようという趣旨だった。

プロランナーならではのアイディアで、10位までの入賞者には賞金を用意したことも動機付けとなったのだろう。“戦士”を含む地域住民の参加は5000人を数えた。「6位に入賞して賞金、約2万円を得たポコトの戦士が、プロランナーになる決意をし、ライフル銃を売って得たお金で、練習用具一式を購入した」との記事が地元誌“East African”に掲載されるなど、地域の意識は戦いから平和へと大きく変化しつつある。この成功をうけて今年、ロルーペは、隣国ウガンダとスーダンでも“平和マラソン”の輪を広げる予定でいる。「女性だから少数民族だから」と苦労した時代があったからだろうか、辺境地域での普及活動に熱心だ。ロルーペの挑戦はまだまだ続く。

次回は、『ヌデレバの強さの背景にあるもの』です。お楽しみに!

2005年6月3日 「ヌデレバの強さの背景にあるもの」

▲ケニアの刑務官チームに所属しているヌデレバ(右端)

今年4月のボストンマラソンにケニアのキャサリン・ヌデレバが2年連続4度目の優勝を果たし、10万ドル(約1000万円)の賞金を獲得した。ボストンの高額賞金は魅力だが、後半、急な坂があり、好記録は望めないから、記録ボーナスは期待できない。今年は、同じ4月のロンドンマラソンが莫大な出場料を用意してポーラ・ラドクリフら大勢の一流選手を呼び集めたが、ヌデレバは、ボストンを選んだ。「マラソンには勝つことが大事な大会もあります。100回以上の伝統を誇るレースに勝てることは名誉です」と彼女は言う。ケニア選手には珍しく、五輪や世界陸上でメダル争いを演じるヌデレバらしい言葉だと思った。アテネ五輪で野口みずきを追い上げたシーンを思い出す。

私がヌデレバと初めて出会ったのは98年、アトランタの10kmロードレースだった。ヌデレバは96年以降、出産した97年を除いて米国内の5キロからハーフマラソンまでのロードレースに勝ちまくり、“ロードの女王”として有名だったが、当時、彼女の名を知る日本人はほとんどいなかった。

フルマラソンデビュー戦の99年ボストンは6位。秋のニューヨークが2位だったが、2000年以降はボストンの連覇を含めて3連勝。日本で注目を浴びるのは、2001年10月のシカゴで世界最高を樹立してからだった。

エージェントのリサ・バスターは、「ヌデレバは話し上手で、記者会見が盛り上がるので、世界中のレース主催者から好かれている」とベタ褒めだが、日本ではレースだけでなく、テレビのエンターテイメント番組でも引っ張りだこだ。ヌデレバは中央州出身のキクユだが、“よくしゃべる”のは民族の伝統のようだ。

ヌデレバは毎年3月から10月まで米国・フィラデルフィア近郊のノリスタウンで過ごす。ケニアに夫のマイナと7歳の娘、ジェーンちゃんを残し半年以上の“出稼ぎ”。この地を拠点に、米国各地の賞金レースに出場する。アトランタのレース後、私もノリスタウンに移動し、ヌデレバの宿舎を訪問。米国人女性エージェント、バスターが購入した3階建てのアパートに、13人のケニア人契約選手が自炊しながら共同生活をおくっていた。

ニューヨークに3回優勝したジョン・カグエのエージェントだったバスターは、定期的に彼の出身地、中央州を訪問していたが、95年、地元のコーチがヌデレバを引き合わせた。女性選手との契約は初めてだったが、直接話してみて、「その優しい性格が気に入った」とバスターは当時を振り返る。

高校卒業後、刑務官チームの選手として採用されていたヌデレバは、国内で走り続けることも可能だったが、同じキクユのカグエの米国での成功に触発され、ノリスタウンでの生活を選んだ。“新しい環境にもすぐに適応する”キクユらしい選択だった。資金も知名度もなかった弱小エージェントと走ることを職業としたかったキクユの選手との思惑が一致したケースといえるだろう。

米国滞在中のコーチは、バスターの夫でモロッコ出身のムスタファ。かつてローザの指導を受けていたことがあり、87年ロンドンマラソンで優勝した谷口浩美に次いで2位になった経験がある。彼の指導法は最近の風潮とは異なり「マラソンに高地トレーニングは必要ない」。空気が薄い高地では、マラソンに必要不可欠なスピード練習が十分できないというのが持論。「高地トレーニングは嫌い」というヌデレバには最適な環境だった。ムスタファのもとで徹底したスピード養成に取り組んだ結果、才能を開花させた。

バスター傘下のケニア選手には女性選手も複数名いるが、マラソンに取り組むのは当時、5人。現在は10人近いが、ヌデレバ以外はすべて男子。練習は早朝6時、アパート近くの国立公園でのランニングで始まる。未舗装の悪路をかなりのスピードで駆け抜ける。自転車を借りて彼女の練習を追ったが、うっそうとした森の中に消えていく後ろ姿を見送るしかなかった。

毎朝走る距離は1ヵ月で約600キロ。日本選手と比べてかなり少ないが、ムスタファが重視するのはむしろ午後のトラック練習だ。近くの高校のグラウンドでスパイクを履いての練習を繰り返す。ムスタファは「標高が100mに満たなくても、スピードさえつければマラソンに勝てる」と断言する。

さらに、ほぼ1週間に1回のペースで10キロなどのロードレースに出場する。あまりに頻繁にヌデレバがレースに顔を出すため、エージェント界にはバスターを「賞金目当ての金の亡者」と陰口をたたく者もいるが、「週に1回、本番レースを走ることが最も効果的なスピード練習になる」とムスタファは反論する。ヌデレバもレース漬けの日々をまったく嫌っている様子はなく、むしろ他の複数のエージェントに所属し米国に生活する多くのキクユの仲間たちと再会できるチャンスを楽しんでいるようだった。

日本に留学することを選んだエスタ・ワンジロ(資生堂、シドニー五輪女子マラソン4位)とは同郷ということもあって大の仲良しだ。ヌデレバは年の半分は故国に帰るが、ワンジロは、里帰りのとき以外は、1年中、日本に暮らす。日本語も上手ですっかり異国の生活に溶け込んでいる。現在、日本には20人以上のケニア選手がいる。過去、カレンジンもいたことはあったが、滞在が長期にわたるのはワンジロはじめ大半がキクユで、キシイが少々。キクユの適応力の高さは印象的だが、女性が10人以上もいるのは、今のケニアを象徴しているようだ。女性の活動に伝統的に制約が多かったケニアだが、欧米的ライフスタイルは都市部を中心に急速に広まっている。首都ナイロビの企業でバリバリ働く女性も数多いが、キクユの割合は高い。中央州が首都と隣接しているという地理的有利さだけなく、教育に熱心な民族として知られているから、欧米的思考に触れる機会も多く女性の社会進出への理解も高まるのだろう。

▲ヌデレバと娘のジェーンちゃん(ナイロビの自宅前で撮影)

ヌデレバの自宅で、娘ジェーンちゃんに「将来、何なりたいの?」と尋ねた。「パイロット!」だという。「マラソンランナー」という答えは返ってこなかった。母が得た莫大な賞金により、娘は、名門私立小学校で英語、仏語そしてコンピュータを勉強するなど、何不自由ない生活を送っているが、その代償として、半年間も母娘は一緒に暮らすことができない。そんな寂しい思いをしなくてはならないマラソンランナーになどなりたくないというのが娘の本音なのだろう。今のケニアでは、女性が就くことが、まず不可能な職業だが、パイロットなら、いつでも母親のもとに飛んで行けるのにという健気(けなげ)な思いを感じた。ヌデレバも心なしか悲しそうだった。愛する娘が、母国で応援しているからだろうか、賞金レースだけなく、五輪や世界陸上にもケニアを代表して積極的に出場し、メダル争いを演じる。娘には母親を誇りとして欲しいのだろう。愛する娘と夫のためにヌデレバは走り続ける。キクユの女性はたくましい!

次回は『エチオピア女性の憧れツル』です。お楽しみに!

2005年6月4日 「エチオピア女性の憧れツル」

▲19歳当時のツル

00年シドニー五輪の開会式でエチオピア代表選手団の旗手をつとめたのは、デラルツ・ツルだった。92年バルセロナ五輪の10000mでエチオピア女性初の金メダリストとなった選手だ。サハラ砂漠以南のアフリカ諸国にとっては最初の女性金メダリストということになる。1児の母となり、28歳になっていたツルは、シドニーでも再び同じ種目で金メダルを獲得した。またマラソンにも挑戦し、01年のロンドンと東京を制している。

近年、エチオピアのトラック種目が強い。特に昨年の女子5000mのランキングは、3位のT.ディババを筆頭に、上位10傑中、6人を占め、トルコに帰化したE.アベイレゲッセを含めると7人がエチオピア人選手だ。00年は、3人だったから、ここ数年で倍増したことになる。

エチオピアはアベベ・ビキラの歴史があるから、伝統的にマラソンの人気が高かったが、ツルや“皇帝”ハイレ・ゲブレセラシエの活躍により、トラックの人気も急速に高まっている。

出身地近くを練習拠点とするケニアと違い、エチオピアでは国代表レベルの選手は、首都に集められ、陸軍や刑務官チームなど所属し練習をしているが、これは昔も今も変わらない伝統だ。91年、首都アディスアベバ中心部にある国立競技場では、男子マラソン世界記録保持者デライン・デンシモや東京国際マラソン優勝のアベベ・メコネンら、そうそうたるメンバーが練習し、彼らに憧れる若い選手がその後を追っていた。

マラソンとトラック種目で構成されるナショナルチームの中でも、ビキラの伝統を受け継ぐマラソンチームはエリート集団で、皆、陸軍の所属だったから、かなりピリピリした感じを受けた。内戦が終結した直後だったというのも影響しているかもしれない。

一方で、トラックチームは和気あいあい。女性選手も多く、楽しそうだった。その中には、18歳のハイレ・ゲブレセラシエもいたし、19歳のツルもいた。直前にエジプトで開催されたアフリカ競技大会に優勝するなど既に実績のあった彼女は、数多い女性選手の中でリーダー的存在だった。

▲これが大きな五輪マーク(91年当時)。現在では3セットに増設されている

その競技場のバックスタンド背後には大きな五輪マークが掲げてあり、リングの中には、アベベ・ビキラ(ローマ、東京のマラソン)、マモ・ウォルデ(メキシコのマラソン)、ミルツ・イフター(モスクワの10000m)という3人の五輪金メダリストの肖像が描かれていた。エチオピアという国名を世界に知らしめた彼らが、どれほど尊敬の対象となっていたかがわかる。そして残る2つのリングには『?』が描かれ、「つぎは誰?」と選手たちに呼びかけているようだった。

エチオピアは政治的な理由から76年モントリオール、84年ロサンゼルス、88年ソウルと3度も五輪をボイコットしたためにモスクワを最後に金メダリストが途絶えていたから、選手たちは、長期間にわたって、肖像が描かれることのない2つの『?』を見上げ走り続けたことになる。 92年の春、ツルはトラックレース出場のため来日、合間に電化製品を買いたいというので、秋葉原に案内した。テレビ、ビデオ、電話、ラジカセを購入したのだが、ソニーとか東芝というブランド名だけでなく、日本製(Made in Japan)の表示があるか入念に確認していたのが印象的だった。

いざ支払いというとき、請求額は20万円を軽く超えた。持ち合わせが足りなくなった彼女に代わって、私が立替えたのだが、ちゃんと帰国前に返してくれた。「借りたものは、返す!」当たり前のことが通用しない国は世界に少なくないが、その出来事を通してエチオピア人の律儀さに感心した私だった。

同時に、決して豊かでないエチオピアでは、一般の国民の年収をはるかに超える買い物だったが、これだけ高額の支払いができる彼女らトップ選手たちは国内ではエリート集団なのだと改めて実感した。

93年にエチオピアを再訪問した私は、五輪金メダリストとなったツルの自宅で歓待を受けた。昼食をご馳走になりながら、バルセロナから帰国した直後のパレードと式典のビデオを見せてもらった。空港から競技場までの市民の熱烈な歓迎ぶりが印象深かった。陸軍チームと双璧の刑務官チームに所属していた彼女は、少佐に昇進、大統領から直接、階級章を授与された。

そのころ、エチオピア国内では、デンシモがテナントビル所有、メコネンがレストラン経営など、軍人であり選手であるにもかかわらず、獲得した賞金を元手に副業にも精を出していた。91年に社会主義政権が倒され、民主主義政権に変わったことも、選手の経済活動を後押ししたのだろう。

ツルも他の選手にならって、その名も“バルセロナ”という食品店を開業したのだが、数ヶ月で廃業。彼女にはビジネスの才能はなかったようだが、英雄になれば、名誉だけでなく富も手に入るのだということが、広く知られるようになり、エチオピアでの走ることの人気はさらに高まっていった。

国民の半分近くが何世代も前からのキリスト教徒(コプト派)だということもあるのだろう、エチオピアは伝統的に女性の社会参加に寛容だったから、ツルの成功に刺激された多くの家庭では、親が娘に走ることを勧める現象が起きたという。そうして走り始めた女性ランナーたちは英雄ツルが専門としたトラック種目に挑戦するのだった。

93年の訪問時、「私の肖像はまだ描かれていないの、予算がないらしくて」とツルは寂しそうに話していたが、数年が経って、やっとでリングに肖像が描かれた。その後、2個目の金メダルを獲得したツルは、エチオピア女性の憧れの存在となり、社会に進出する女性の“お手本”となっている。

在日エチオピア大使館に勤務する知り合いのゲタチョ二等書記官に聞いたところ、今、競技場の五輪マークは3セットに増設されたという。描かれた選手の数も増えているが、つぎの金メダリストのために『?』のスペースも残されている。競技場で走る選手たちは「つぎは自分が」との気持ちを懐きながら走り続ける。

次回は『ケニアに女性のためのキャンプ登場』です。お楽しみに!

2005年6月5日 「ケニアに女性のためのキャンプ登場」

▲10年前のキプラガト

大阪国際女子マラソンに優勝したこともあるロナー・キプラガトは、01年の秋、出身地に近いリフトバレー州イテンに宿泊施設を併設する“高地トレーニングセンター”を設立。競技を続けたい女性選手を受け入れることが目的だった。ケニア国内には、男性選手が対象の合宿所スタイルのキャンプは数多くあったが、女性対象が強調されるのは初の試みだった。

私がそのキャンプを訪れた02年当時、マラソン世界ランク50傑中にはケニアの女性選手が7人いたが、男性の24人比べると極端に少なかった。テグラ・ロルーペとキャサリン・ヌデレバという2人の世界記録保持者がいる国としては寂しい状況だった。練習拠点が、男性は国内であるのに対し、女性はほとんどが海外であることが選手層の差となっていたことは明らかだった。

ケニア女性の伝統社会での役割は家庭の中での用事をこなすこと。ケニアの就学率は他のアフリカ諸国より高いから、ジュニア・キャンプには女性選手も多く参加し、世界クロスカントリー選手権大会では、ジュニアの部が設けられた1989年以降毎年上位入賞の実績もある。しかし卒業して学校を離れてしまうと、大人の女性が1人で練習を続けるには伝統社会の目は厳しい。欧米のエージェントに見出されケニアを離れてトレーニングできるのはほんのわずかな例でしかなかったから、残された大部分の女性選手は、走ることを断念するしかなかった。

ロルーペ、ヌデレバ、キプラガトら海外組の成功が刺激となったのだろう、近年、国内キャンプでの女性受け入れが始まり、ローザの指導を受けたマーガレット・オカヨなど国内組も世界で活躍するようにはなっている。しかし、男性選手に囲まれた環境の中では、恋愛関係になり妊娠、競技を断念する女性選手も多いというから、ランキングに登場する選手数は増える気配がない。

▲現在のキプラガト。長い欧州生活で、髪型も洗練された感じ(?)(※)

女性が国内で安心して練習に励める環境を作ろうと立ち上がったのが、キプラガトだった。オランダ人エージェント、ピータ・ランガーホルストと出会いケニアを離れて練習を続けた選手だ。今年31歳になったが、まだ現役として走り続ける彼女とは10年ほど前に初めて知り合った。当時の写真と今とを比べると、髪形に大きな変化がある。当時は田舎から出てきたばかり女の子、今は流行の先端を行く女性といった感じだ。長い欧州生活で髪型だけなく考え方も欧州スタイルに変化したのだろう。キャンプは、男性選手の参加も認めるが、「施設内では男女平等」が大原則。掃除も炊事も交代で担当するのがルールだ。

女性の意識向上を目指して女性だけのロードレースも主催し、02年の第2回大会には賛同したシドニー五輪銅メダリストのジョイス・チェプチュンバもゲスト出場した。参加者は30人程度と少なかったが、女性選手が走る姿を地域に印象づけることは、伝統社会の意識に風穴をあけるのに効果的かもしれないと私は感じた。

しかし、取材に訪れていたケニア在住のスイス人スポーツジャーナリストの評価は、「期待はずれだ」と辛口だった。「2度目の大会だったにもかかわらずレース開催を広く周知できず、わずかな選手しか集められなかったということは、地域に根ざしたイベントではなかったことを意味する」という彼の言い分ももっともではある。

“女性のためのレース”という趣旨はわかるが、ケニアで健康のために走る者はまずいない。参加者全員にTシャツがもらえるからとか賞金レースだからというのが理由だ。さらには優勝すれば、エージェントの目に留まり、海外デビューが果たせるかもという期待もある。このレースの場合、参加者にTシャツは配られるが、賞金は小額。さらに弱小エージェントのピーターは、キプラガトのマネージメントで精一杯なので、他の多くの選手を欧米のレースに送り込むだけの十分な余裕はない。走ることを職業としたい女性は増えているが、メリットのないレースに出場しようとは思わない。

キャンプを国内に作ったものの、キプラガトとピーターは、1年の半分ほど、賞金レース転戦のためにオランダで過ごす。現役だから仕方ないこととはいえ、施設管理は親戚に任せっぱなしだから、キャンプ所属選手は増える兆しはなく、女性選手の増加というキプラガトの思いは十分に地域に浸透していない。

キャンプ設立時すでにピーターと結婚していたキプラガトは、03年には国籍を変更。オランダ代表として出場したパリ世界陸上10000mでは、4位入賞し、今夏のヘルシンキでも優勝候補に名を連ねている。ケニアにとってはライバル選手になってしまったわけだが、国籍は変わっても、カレンジンとして地域との絆は消えない自信がキプラガトにはある。賞金だけで年収が1000万円ほどもあり、幸せな生活を送る彼女は、「自分を育ててくれた地域への恩返しをしたい」のだという。

04年のマラソン世界ランク50傑にケニア選手は女性8人、男性20人。2年前と状況は変わらず、女性のためのキャンプ登場の成果はまったく見られない。国内に女性を対象としたキャンプは、いまだ1箇所のみで増えそうにない。女性だけのキャンプを作るメリットをピーター以外の欧米のエージェントたちは感じていないのだ。将来、キプラガトが引退し、キャンプ運営に専念できるようになったなら、女性選手の数は急増するかもしれない。より多くのケニア女性が、世界で活躍する日は、もうしばらく待ってみることにしよう。キプラガトの試みは始まったばかりなのだ。

次回は『西アフリカ女性躍進の理由』です。お楽しみに!

2005年6月6日 「西アフリカ女性躍進の理由」

97年11月、国際陸連は、セネガルの首都ダカールに、トレーニングセンターを開設した。パリ・ダカールラリーのゴール地点として有名な都市だが、かつては仏国による植民地支配の拠点がおかれていたため、この地域で最も発展し、欧州や近隣諸国からの航空便も最も多い西アフリカの玄関口だ。こうした地の利を生かして、素質がありがらも施設や指導者が不十分で母国で競技を続けることが困難なアフリカ各国の選手を受け入れている。

▲ティアム(世界陸上エドモントン大会女子400m金)

▲バンゴ(アテネ五輪女子三段跳び金)

01年世界陸上エドモントン大会以降、西アフリカ出身女性の短距離と跳躍種目での活躍が目覚しい。セネガルのA.M.ティアムはエドモントンで400mに優勝、カメルーンのE.F.バンゴは、エドモントンと03年パリ世界陸上の三段跳で連続の銀メダル、04年アテネ五輪では金メダルに輝いた。彼女たちは、このセンター出身なのだ。

ダカールセンターは、地域の特性を生かして、短距離と跳躍、ハードルの指導を得意としているから、彼女らのように西アフリカ出身の選手が多くなる。これら種目には海外から専門コーチを招いており、短距離はウクライナ人、ハードルはフランス人、跳躍はロシア人が担当している。中長距離種目はケニア、混成競技はモーリシャスにセンターがある。選手の滞在費や食費などは、派遣国陸連が負担するか、奨学金でまかなうことになる。年間予算1500万円で、これだけの成果をあげていることは驚きだが、責任者でトーゴ人のM.K.アゴポメは、「初年度は8万ドル(約800万円)しか予算がなかったけど、実績が認められて年々増額してもらっている。まだまだ足りないけどね」と語る。

現在30人が在籍しているが多くが仏語圏からの選手だ。仏国にはかつて植民地としていた国々の文化・スポーツ振興援助のために奨学金を支給する制度があり、このセンターには12人分が割り当てられており1人当たり月1000ドルが提供されるから、どうしても仏語圏出身者の割合が多くなっていく。このほか、五輪が開催される2年前から終了後までの期間限定だが15人分の奨学金がIOCから補助される。

各国から「選手を受け入れて欲しい」と多くの希望が寄せられるが、選考委員会を開いて男女比にも配慮しながら定員の30人に絞り込む。現在、西アフリカを中心につぎの11カ国から選手が集まっている。(  )内は、大陸内の位置と主要言語。セネガル(西部、仏語)、カメルーン(西部、仏語と英語)、コートジボワール(西部、仏語)、ブルキナファソ(西部、仏語)、ベニン(西部、仏語)、マリ(西部、仏語)、ニジェール(西部、仏語)、アルジェリア(北部、アラビア語と仏語)、ジンバブエ(南部、英語)、モーリシャス(インド洋、仏語と英語)、スーダン(東部、英語)。

国際陸連は、アフリカだけでなく、アジアや南米など世界の途上地域にセンターを設けているのだが、最も成果をあげているのが間違いなくダカールだ。モーリシャスの、ステファン・バックランド(アテネ五輪200m6位)やエリック・ミラザール(エドモントン400m5位、パリ6位)など男性選手も決勝進出の実績をあげているが、センター開設からわずか4年でメダリストが誕生した女性の活躍には目を見張るものがある。マリオン・ジョーンズが以前ダカールを訪れたとき「私のルーツはこの地にある」と語ったのは印象的だったが、昔、米国や中南米、カリブの国々に労働力として連れられて行った黒人の多くは、ほとんどが西アフリカ地域の民族だったと言われている。西アフリカの小国ベナンの海沿いはかつて“奴隷海岸”と呼ばれたし、ダカール沖のゴレ島には、現在世界遺産に指定されているかつての奴隷積み出し基地遺構が残されている。米国の黒人選手と西アフリカの選手との肉体に、どれほどの共通点があるか、正確なデータがあるわけではないが、少なくとも両者が瞬発系種目に才能を発揮していることは事実だ。しかし五輪や世界陸上の男女100m決勝で、米国の黒人選手がメダル争いの常連なのに対し、西アフリカからはナイジェリアがやっと下位入賞を果たすだけというように、その活躍の度合いには、雲泥の差がある。施設が充実し、スポーツ医科学に裏打ちされた指導方法に接することができる米国の選手が強くなるのは当然だろう。

西アフリカには、英国と仏国の植民地が混在していた。英国領だったことで英語が公用語のナイジェリアやガーナの有望な若手は、米国の大学からスカウトされ本場の指導に触れることができたので、仏語圏西アフリカ諸国より有利だった。さらに石油大国ナイジェリアは古くから独自予算で、有望な男女選手を米国留学させ最新の指導法に触れさせていたから、世界ランキングに登場する短距離選手の数はアフリカでも群を抜いている。

しかし留学は、一部の選手の能力を伸ばすことはできても、人数限定だから、地元の裾野を広げることができない。逆にいえば、施設や指導者を充実させれば、いながらにして、強くなることができるのではという思いは誰もが抱くことだろう。この発想が、トレーニングセンター発足のきっかけとなった。

英語が話せないという理由で米国留学のチャンスに恵まれなかった仏語圏の選手にとっては、仏語が通じるダカールにセンターがある意味は大きかった。またダカールは西アフリカの玄関と呼ばれ、地域の中心地だから、米国や欧州に行くことと比較すれば航空賃は廉価だし、滞在費や食費も安いから、予算の苦しい小国でも選手を送り込むことができる。「食事のバリエーションが少ない」とアゴポメは言うが、キャッサバや食用バナナから作られるも餅状の主食は、アフリカ共通だから、食事が理由でホームシックになることはないだろう。

西アフリカは、東に比べ、早くから英仏に植民地化されたために、都市部では、ライフスタイルや思考はかなり欧州的だ。女性の社会進出にもかなりの理解がある。しかし田舎だと、伝統のしがらみは大きく、地元に暮らしながら女性がスポーツに打ち込むことへの周囲の理解は十分でないから、知り合いがいない離れた場所での合宿生活のほうが、練習に打ち込むことができる。もともと身体能力は折り紙つきだから、落ち着いた環境の中で、経験豊富なコーチの指導を受けた女性選手が、結果を出すのに時間はかからなかった。

西アフリカには、ナイジェリア、セネガル、カメルーン、ガーナ、マリなどサッカー強豪国が目白押し。この地域のサッカー人気の高さがうかがい知れる。欧州のプロチームに所属し、年収1億円以上という選手が何人もいるから、少年たちは、サッカー選手にあこがれる。女の子たちにとっては、陸上競技が豊かさに挑戦できるスポーツだ。

センターは、所属する選手を、練習漬けにするのではなく、欧州の国際招待大会に出場させレース経験を積ませることで、レース感を養っている。こうした招待大会で上位に入って手に入れた賞金は、自分のものになるから、選手たちのモチベーションは高まっていく。ヘルシンキ世界陸上では、競技後のインタビューに仏語が飛び交うシーンが多く見られるかもしれない。

次回は『アフリカ女性最初の金メダリストはアラブ女性』です。お楽しみに!

2005年6月7日 「アフリカ女性最初の金メダリストはアラブ女性」

▲ムタワケル(左=ロス五輪女子400mH金)とアウイタ(ロス五輪男子1500m金)。
2人ともモロッコ初の金メダリスト

五輪の歴史の中で、最初に陸上競技の金メダリストになった“アフリカ大陸出身の女性”は、1952年ヘルシンキ大会の走高跳に優勝した南アフリカ連邦(後の、南アフリカ共和国)代表の白人選手エスター・ブランドだが、“アフリカ女性”として最初の金メダリスト』として世界に知られているのは、84年ロサンゼルスに初めて採用された女子400mハードルに優勝したモロッコのムタワケルであり、国際陸連のウェブサイトにも、「アフリカ、アラブ、地中海女性として最初の金メダリスト」と紹介されている。

ブランドの母国は当時、人種隔離政策“アパルトヘイト”により、人口の2割に満たない白人が8割以上の非白人(黒人、混血、アジア系)を差別し続けていたから、スポーツの代表も、全国民を代表したものではなかった。その後も差別政策を止めない南アは、70年、IOCを除名され、世界のスポーツ大会から締め出されるに至った。こうした経緯があって、差別を撤廃し92年に国際舞台への復帰が認められる以前に南ア代表選手が獲得した14個のメダルは、“アフリカ”のものとしての累計にはカウントされていないのだ。

ロス五輪では、ムタワケルとともに、男子1500mでサイド・アウイタもモロッコ初の五輪金メダルを獲得、2度も国旗がセンターポールに上がり、国歌が奏でられたから、母国は沸いた。スポーツに理解があることで知られる故ハッサン2世国王は、帰国した金メダリスト2人に直接勲章を手渡した。穏健なイスラム教徒として知られ、国民に慕われていた国王は、男女の別なく祖国の英雄を歓迎した。こうした国王の求心力があるからだろうか、イスラム教国でありながらモロッコ国民は女性の社会進出に好意的だ。国王が2人の金メダリストと手を携える写真は、国内すべてのスポーツ施設に掲げられたから、走ることへの関心が急速に高まるとともに、女性のスポーツ参加を加速させた。

ロス五輪後、スポーツに理解がある国王の肝いりで、国内には陸上学校が新設された。優秀なジュニア選手が全国から集められて合宿生活を送り、シニアまでの一貫指導を受けるシステムは、多くの名選手を世に送り出した。アフリカに属するものの、モロッコは欧州との結びつきが強く、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国に比べて、経済力があるから、国内には、立派なスタジアムが複数あり、施設面ではすでに問題なかったので、システムの定着とともに、国内の選手層は厚みを増していった。

ムタワケルが才能を開花させたのは米国留学がきっかけだったから、同時代のモロッコ国内には、世界で活躍するような女性選手は見当たらない。国内数箇所に新設された陸上学校には女性選手も大勢加わったので、世界に挑戦するモロッコの女性選手の数は急増した。

ムタワケルの活躍は、国内にとどまらず、アラブ女性に勇気を与えたようだ。91年世界陸上東京大会の1500mに優勝した隣国アルジェリアのハシバ・ブールメルカは、同選手権史上初めて金メダルを獲得したアフリカ女性となった。帰国後、彼女はヒロインになったが、一方で、イスラムの教義に厳密な原理主義者が多い同国内で糾弾の矢面に立たされてしまった。「女性が肌を人前に露わにするとは何事か」というのだ。その結果、「競技を続けるなら外国で練習しろ」という声が高まり、海外移住せざるをえなくなってしまったという。

97年世界陸上アテネ大会では、モロッコのN.ビドゥアンが、400mハードルに優勝したが、私が初めて同国を訪れた92年、首都ラバトの陸上学校で練習していた彼女の姿が印象深い。青年海外協力隊の陸上競技コーチとして派遣されていた大学後輩の女性が「この選手は有望ですよ」と私に紹介したのだが、世界チャンピオンになろうとは思いもしなかった。モロッコでは、中距離選手に逸材が多い理由を「アウイタ効果」という言葉で説明することがある。英雄の種目に後輩は憧れるものなのだ。同様に女性選手には「ムタワケル効果」があったようだ。

その時、私を案内してくれた後輩は、地方の小学校などで、陸上競技の普及に努め、2年間の任期をまっとうしたが、イスラム教国でありながら、女性のスポーツコーチを受け入れたモロッコが、開かれた社会であったことを痛感する。

03年、モロッコで爆弾テロが発生した。イスラム原理主義勢力の台頭は、すべてのイスラム諸国で顕著になってきている。女性を取り巻く状況も厳しい。アルジェリアでブールメルカが非難されたように、女性の活躍を喜ばないグループがモロッコ国内にも少なからずいるのは確かだ。また在位中38年にわたってスポーツ振興に情熱を注いだ故ハッサン2世国王のカリスマ性は、女性のスポーツ参加への強力な追い風だった。ムタワケルがスポーツ大臣に就任した97年にビドゥアンが世界陸上を制し女性のスポーツ振興はますます広がるかと思われた。その国王が99年に逝去したことは、衝撃だった。為政者がスポーツを応援する気があるかどうかは、その国のスポーツ振興には大きな影響がある。ムハンマド6世が後を継いだモロッコのスポーツ界はどう変わるだろう。

エルゲルージの中長距離種目2冠が印象的だった昨年のアテネ五輪で、モロッコ女性の決勝進出は、800mで銀メダルを獲得したH.ベンハシのみ。世界陸上の成績を過去と見比べながら、モロッコ女性選手がこのところ元気がなく見えるのは、社会情勢も影響しているのだろうか。
こんな社会情勢ではあるが、イスラム女性はたくましい。今年7月、2012年五輪の開催地が決まることになっているが、ムタワケルはIOCの立候補都市評価委員長として世界を飛び回る。また2007年に大阪で開催される世界陸上の国際陸連側、競技運営責任者の1人に任命されている。
ヘルシンキの世界陸上ではハンマー投予選に注目してみよう。長袖、長ズボンで肌を隠し、顔はスカーフで覆ったエジプト代表選手が出場するはずだ。また100m予選でも、北アフリカや中東から同様の服装で出場する複数のイスラム女性を目にすることだろう。実力的には世界には遠く及ばないが、スポーツに挑戦したいという気持ちに、宗教の別は関係ないのだ。華やかな決勝では、触れることのできないイスラム女性の頑張りにも注目し応援してみたい。

次回は『内戦で疲れた母国に夢と希望を与えたムトラ』です。お楽しみに!

2005年6月8日 「内戦で疲れた母国に夢と希望を与えたムトラ」

▲92年アフリカ選手権優勝時のムトラ

93年、モーリシャスで開催されたアフリカ選手権の女子800mを制したのは、モザンビークのマリア・ムトラだった。彼女はすでに90年、91年のアフリカタイトル保持者で、91年東京世界陸上では4位入賞の実績があったが、このとき同国からはもう1人、400mに出場したティナ・ポリーノも金メダルに輝いた。そのときモザンビーク陸連関係者は、ムトラやポリーノと抱き合い大喜び!30年にも及ぶ内戦が前年秋に終結したばかりのモザンビーク躍進を予感させたのだが、以後10年以上にわたって、この2人以外に有力選手は誕生していない。

モーリシャスでムトラは、ポリーノを「従姉妹よ」と紹介したので、私はそう思い込んでいた。世界には「妹」と報道する新聞すらあった。おととし、モザンビークを初訪問し、陸連のル・ボン前会長にこと話をしたら、「モザンビークでは誰もが兄弟姉妹だよ」と笑われてしまった。ムトラとポリーノは、地元スポーツクラブに所属していたときの先輩後輩の関係しかなく、出身民族も異なる赤の他人だった。

クラブでは、男性に混じってサッカーチームで活躍していたムトラは、その俊足をかわれソウル五輪に出場した。それがきっかけとなりIOCの奨学生として米国留学したことで才能が開花した。ムトラは、同じクラブの後輩でバスケット選手だったポリーノにも走ることを勧め、彼女の米国留学実現にも尽力した。モザンビークは、旧宗主国ポルトガルの影響もあって、サッカーやバスケットの人気が高く、たくさんの逸材を輩出していたから、男の子だけなく女の子も、スポーツに親しむ機会が多かった。

当時、モザンビークを離れるということは、高度な指導が受けられるということ以上に大きな意味があった。長期間に及ぶ内戦は多くの難民を生み出していた。ムトラやポリーノが暮らしていた首都マプトは、比較的平穏だったとはいえ、海外に移住することは、平和な生活が保障されるということ意味した。しかしなぜ男性でなく、女性が留学のチャンスを得たのだろうか。内戦中、働き盛りの男たちは、軍に徴用されてしまうので、その結果、女性が活躍する場は広がる。多くの悲劇をもたらした内戦が、ムトラやポリーノにチャンスを与えたとは、皮肉な話だ。

ポルトガルの植民地だったモザンビークの公用語は、ポルトガル語だから、ムトラは英語の習得に苦労したという。しかしその苦労は無駄ではなった。国際招待大会に出場するときインタビューに英語で受け答えできる選手は、主催者に歓迎される。世界陸上3回優勝、世界室内陸上6回優勝、シドニー五輪優勝、50連勝記録樹立など人気者のムトラは、欧州の大会では引っ張りだこ。出場料もうなぎ登りだったが、英語が話せなければ、これほど人気が高まることはなかっただろう。

現在のモザンビークは状況が違う。おととし、長距離バスで中部の町から南部にある首都マプトまでの1500kmの道のりを長距離路線バスで移動したのだが、地方の町でもバスの車内でも英語を話せる人の数が極めて多いと感じた。周囲を、南アフリカ共和国、ジンバブエ、ザンビアなど英語圏に囲まれているので、内戦終結により、活発となった隣国との経済活動には英語が必須となったのだ。英語が話せる若者が多いから、ムトラに続く選手が現れてもよさそうだが、寂しい限りだ。

ムトラの活躍は、内戦に疲れた母国に夢と希望を与えた。90年のアフリカ選手権優勝に始まり、世界陸上、そして五輪優勝などなど、表彰式のたびに、国旗をセンターポールに掲げ、国歌をスタジアム内に響かせた。内戦の悲劇を味わった国だからこそ、スポーツを通して国民の心をひとつにしたムトラの活躍は歓迎される。ムトラは国の英雄であり、誇りでもある。特に、シドニー五輪の後、マプトでは記念式典が開催されたが、大統領からは最高位の“エドゥアルド・モンドラーネ勲章”が贈られるとともに、“モザンビーク”という国名を一層世界に知らしめる“スポーツ大使”としての役割を期待され、外交官パスポートも与えられた。英雄を称える国内の動きはこの他にも多数あり、例えば、国営航空利用の際には、ファーストクラスが無料だし、マプト滞在時には、一流ホテルのスイートルームが提供される。

しかし彼女が帰国するのは、1年のわずかな期間だけ、国内選手権にも出場しない。各種大会の賞金をあわせると年収50万米ドル(5000万円)を軽く超えるムトラは、米国と南アに豪邸を購入し、トレーニングを続けている。国内では有名人すぎて練習に専念できないから、練習施設が整い、遠征に便利な海外に長期滞在することになってしまうのは仕方ないのだが、「モザンビークの人びとの間では、ムトラはイメージがあるだけで、実像がない」と、陸連のル・ボン会長は嘆く。英雄を間近で見ることができないから、子供たちは陸上競技に関心を示さず、彼女のあとに続く有望選手が現れないのだという。

昨年、彼女は、“マリア・ムトラ基金”を設立し、才能ある子供たちにウェアーを提供したり、練習の機会を与えるための資金援助を始めた。「タンザニアと国境を接する北部地域を中心に、モザンビークには中長距離に才能ある民族がいる」とル・ボン前会長は言う。大阪で世界陸上が開催される07年には、「モザンビークから新星誕生!」というニュースが流れているかもしれない。

次回はシリーズ第六回となります。テーマは『モロッコ強さのキーワードは地中海』。昨年のアテネ五輪でモロッコの、H.エルゲルージは1500mと5000mの2冠を獲得しました。同じアフリカでも、モロッコが位置する北アフリカの民族は、ケニアやエチオピアとはまったく顔つきが異なります。彼らは中長距離が強い理由を「地中海人だからさ」と解説します。地中海とモロッコの深い絆が理解できると、世界の中長距離勢力分布が鮮明になってきます。お楽しみに!